
佐倉真司、24歳。
彼の日常は、華やかな舞台の裏側で、汗とホコリにまみれることから始まる。
大学卒業後、就職活動に身が入らず、漠然とした不安を抱えていた真司を救ってくれたのが、地元の市民劇団「光の木」だった。
大きな劇団ではない。団員は20人足らずで、多くが会社員や主婦、学生だ。
年に2回、市民ホールを借り切って公演を行う。
真司は、大道具の制作から舞台のセッティング、はたまた客席の案内まで、何でもこなす便利屋だった。
たまに端役をもらえることもあったが、セリフはせいぜい二言三言。
それでも、照明を浴び、観客の拍手に包まれる瞬間が、何にも代えがたい喜びだった。
今回の公演は、古典的なロマンチックコメディ『星降る夜のセレナーデ』。
真司は、主人公の親友という、これまでで一番大きな役をもらっていた。
舞台に立つ喜びを噛み締めながら、真司は毎日稽古に励んでいた。
しかし、その日常は、ある日突然、崩壊する。
稽古が終わり、皆が談笑しているときだった。
団長であるベテラン役者の日野が、深刻な顔で皆を集めた。
日野は50代半ば。
穏やかで皆に慕われているが、舞台のことになると鬼のような厳しさを見せる。
「皆に悪い知らせがある。ヒロイン役の美咲が、稽古中に足の腱を痛めてしまった。全治2ヶ月、今回は舞台に立てないそうだ」
その瞬間、ざわめきが起こった。
美咲は劇団のエースだ。
華やかな容姿と天性の演技力で、観客を魅了する。
今回のヒロイン役も、彼女のために書かれたと言っても過言ではない。
公演まであと1ヶ月。代役を立てるにしても、一から役を覚え、感情を乗せるのは至難の業だ。
真司は美咲を心配しながらも、公演が中止になるのでは、という最悪の事態を想像して、胸が締め付けられる思いだった。
日野が手を上げて、皆を静かにさせる。
その視線が、なぜか真司に固定された。真司は嫌な予感がした。
「そこで、代役を立てる。…真司、君だ」
真司は、自分の耳を疑った。
「え、俺、ですか?」
「そうだ。君しかいない。他の団員は皆、重要な役を抱えている。君なら、親友役のセリフはもう完璧だろう?それに、君はカメレオンだ。どんな役にもなれる」
「でも、俺は男ですよ!ヒロインは、真理子っていう、可憐な女性じゃないですか!俺には無理です!」
真司の言葉に、周囲からどよめきが起こる。
確かに、真司は男らしい骨格ではない。
どちらかというと中性的で、すらりとした体型だ。
しかし、ヒロイン役というのは、さすがに無茶がすぎる。
「無理じゃない。君ならやれる。舞台は、役者の内面を映し出す鏡だ。君の心の奥底にある、繊細さ、可憐さ、それを見せてくれ。それに、今から代役を探しても間に合わない。君が引き受けてくれなければ、公演は中止だ」
日野の言葉は、真司の心を深く抉った。
公演中止。それは、皆の努力、汗、そして何より舞台への情熱が無駄になるということだ。
真司は、自分の肩にずしりと重い責任がのしかかるのを感じた。
「……わかりました。やります」
真司の返事に、皆が安堵の表情を見せた。
美咲の怪我という悲しい出来事だったが、公演が続くことに、皆の顔に希望の光が戻ってきた。
稽古の後、日野は真司を呼び止めた。
「いいか、真司。役作りは稽古場だけでするものじゃない。生活からだ。今日から、日常生活でも女性として過ごしてみろ。女性の服を着て、女性の言葉遣い、仕草を研究するんだ。そうしなければ、真理子の魂を理解することはできない」
「え、日常生活でも、ですか?」
真司は驚きを隠せない。
稽古場での女装だけでも抵抗があるのに、日常生活で女性として過ごすなんて、想像もつかない。
しかし、日野の真剣な眼差しに、真司は何も言い返せなかった。
「そうだ。徹底的にやれ。君には、舞台を成功させる責任がある」
日野に背中を押されるようにして、真司は稽古場を後にした。
ぼんやりと空を見上げる。夕焼けが、真司の心を映すかのように、赤く燃えていた。
稽古場を出て、真司は衣装部屋の前に立っていた。
中には、今回の公演で衣装係を務める美咲、いや、怪我で降板したヒロイン役の美咲がいる。
美咲は真司と同期で、真司が劇団で一番信頼している相手だ。
真司は、ノックをするのを少し躊躇った。彼女は、きっと悔しい思いをしているだろう。
意を決してノックし、扉を開けると、美咲は赤いドレスを手に、鏡の前で微笑んでいた。
「真司くん、来てくれたんだ」
「美咲……怪我、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。しばらく安静にしていれば治るって。ごめんね、私がいきなり降りちゃったから……」
美咲は申し訳なさそうな顔をする。
真司は美咲の怪我を心配しながらも、彼女の責任ではないと優しく伝えた。
「美咲は、ヒロイン役、どうして欲しかった?」
美咲は一瞬、真司の目を見て、微笑んだ。
「真司くんなら、きっと、私よりも素敵な真理子を演じられるよ。私も、真司くんの舞台、客席から応援するから」
その言葉に、真司は胸が熱くなった。
美咲の悔しさも、真司の不安も、全てを包み込むような、優しい言葉だった。
美咲は手に持っていた赤いドレスを、真司に差し出した。
それは、画像にあるような、白の水玉模様が散りばめられた、可愛らしい赤いドレスだった。
胸元には白いフリルがあしらわれ、スカート部分はふんわりと広がるように作られている。
「これ、真司くんが演じる真理子の、ラストシーンで着るドレス。私が、真司くんのために、少しサイズを直しておいたの」
美咲はそう言って、赤いドレスを真司の手に持たせた。
ドレスは、真司の手の中で、不思議なほど軽やかに、そして温かく感じられた。
「これは、ヒロインの象徴だよ。真司くんが、真理子になるための、魔法のドレス。本番までの1ヶ月、このドレスに、真司くんの心を重ねてみて。真理子として、このドレスと、仲良くなってあげて」
美咲の言葉に、真司は小さく頷いた。
この日から、佐倉真司の、舞台の外でのリハーサルが始まった。
翌日、真司は美咲に連れられ、劇団近くのショッピングモールにいた。
稽古場でのメイクは慣れてきたが、私生活で女性として過ごすとなると、真司には何から手をつければいいのか皆目見当がつかなかった。
美咲はそんな真司の戸惑いを察して、優しく手を引いてくれた。
「まずは、ウィッグからだね。真司くんの髪じゃ、真理子の雰囲気は出せないもん」
ウィッグショップに入ると、様々な色や形のウィッグが並んでいる。
真司は、鏡に映る自分の顔に、茶色のミディアムヘアを合わせた。
すると、驚くほど顔の印象が変わる。普段の真司とは、全くの別人だ。
「わあ、真司くん、めっちゃ可愛い!これにしよう!」
美咲が興奮したようにウィッグを選んでくれる。
次に、美咲は真司のメイク道具を一式揃えてくれた。
ファンデーション、アイシャドウ、リップ、チーク。
初めて見るコスメの数々に、真司はただただ圧倒される。
「メイクはね、魔法なんだよ。真司くんの顔を、真理子に変身させるための魔法。最初は難しいかもしれないけど、毎日練習すれば、絶対に上手くなるから」
美咲はそう言って、真司の頬に優しくチークを乗せてくれた。
チークの筆が触れるたびに、真司の心臓はドキドキと音を立てる。
鏡に映る自分の顔は、みるみるうちに女性らしく、可憐に変化していく。
最後に、美咲は真司をレディースの洋服店に連れて行った。
普段、男物の洋服しか着ない真司にとって、それは未知の世界だった。
カラフルなスカートやワンピース、可愛らしいブラウス。
どれもこれも、真司の知る世界とはかけ離れている。
「真理子はね、こういう、可愛らしいお嬢さんって感じの服が好きそうじゃない?真司くん、こういうの着てみて」
美咲は真司に、白いブラウスと花柄のスカートを手渡す。
真司は戸惑いながらも試着室に入った。
鏡に映る自分は、まるで別世界の住人のようだった。
「どう?似合ってる?」
美咲の言葉に、真司は何も言い返せない。
鏡の中の自分は、いつも舞台裏で大道具を運んでいる自分とは、全くの別人だった。
「これに、あの赤いドレスも合わせたら、完璧だね!」
美咲は、真司が持ってきた赤いドレスを嬉しそうに眺める。
「真司くん、これから、毎日女装して生活するんだよね?だったら、女装の練習は、舞台のためだけじゃなくて、真司くん自身のためにも、楽しんでみようよ」
美咲の言葉に、真司は少しだけ、気持ちが軽くなるのを感じた。
しかし、女装生活は、真司の想像以上に過酷なものだった。
初めは、ウィッグとメイクで顔を隠し、パーカーとジーンズで過ごすのが精一杯だった。
しかし、それでは日野団長の言う「役作り」にはならない。
真司は意を決して、花柄のスカートをはき、女性もののブラウスを着て、外に出ることにした。
街を歩くと、すれ違う人々が、真司を好奇の目で見る。
その視線が、真司の心をチクチクと刺す。
スーパーで買い物をしていると、知らないおばさんに「あら、可愛いお嬢さんね」と声をかけられ、真司は顔を真っ赤にして、言葉を詰まらせた。
「ありがとうございます……」
か細い声で答えるのが精一杯だった。
カフェに入ると、店員に「ご注文は?」と聞かれる。
真司は、普段の低く太い声が出ないように、意識して声を高くする。
「えっと……カフェラテ、ください……」
自分でも情けないほど、か細い声だった。
店員は少し不思議そうな顔をしていたが、何も言わずに注文を受けてくれた。
劇団の稽古場では、団員たちが真司をからかう。
「おい、真司!今日のスカート、可愛いじゃん!」
「真理子ちゃん、おやつは食べた?」
最初こそ「やめろよ!」と反発していた真司だったが、次第に抵抗が薄れていく。
むしろ、真理子という役名で呼ばれることに、少しずつ居心地の良さを感じるようになっていった。
声のトーンを高く保つ練習、歩き方を女性らしくする練習。
美咲が熱心に指導してくれた。
「もっと、お尻を振って!でも、やりすぎないように!あと、つま先から歩く感じで!」
「声は、お腹から出すんじゃなくて、喉から出す感じ!もっと、お嬢さんらしく!」
真司は、美咲の指導を必死に守り、毎日練習を重ねた。
鏡に映る自分は、日に日に女性らしくなっていく。
最初はただの「女装した男」だったが、やがて「真理子」という役が、真司の身体に染み込んでいくのを感じた。
ある日のこと。真司は、美咲の指導のもと、女性らしいポーズで自撮りをしていた。
ポーズを研究するうちに、真司は鏡に映る自分と、目の前にいる美咲を重ね合わせる。
「美咲……ありがとう。美咲がいてくれなかったら、俺、ここまで頑張れなかった」
真司の言葉に、美咲は優しく微笑んだ。
「真司くんは、真司くんでいてくれればいいんだよ。私が好きなのは、真司くんが演じる真理子じゃなくて、真司くん自身だもん」
その言葉に、真司の心は、温かい光に包まれた。
女装生活を始めてから2週間が経った。
真司は、もう女性の服を着ることに、抵抗を感じなくなっていた。
むしろ、女性として過ごす時間が増えるほど、自分の中の「真司」という男の存在が、希薄になっていくのを感じる。
稽古後、ウィッグを外し、メイクを落とす。
鏡に映る自分は、いつもの真司だ。しかし、真司の心には、どこか違和感が残る。
「あれ?俺って、こんな顔だったっけ?」
女装をしている間は、声も仕草も、全てが真理子だった。
しかし、元の自分に戻ると、真司は、まるで「真司」という男の役を演じているような、そんな不思議な感覚に陥る。
「真司くん、今日のメイク、めちゃくちゃ上手かったね!リップの色も、真理子の雰囲気にぴったりだった!」
美咲は、真司がメイクを落とすのを手伝いながら、嬉しそうに話す。
美咲との距離は、この2週間でぐっと縮まった。
メイクや衣装の相談だけでなく、恋愛の話や、将来の夢など、何でも話せる仲になっていた。
真司は、美咲との時間が、何よりも心地よかった。
ある日、真司は美咲に提案した。
「美咲、今度、全く知らない街で、1日女性として過ごしてみないか?誰も俺のことを知らない場所で、完全に真理子になりきってみたいんだ」
美咲は、真司の提案に目を輝かせた。
「いいね!楽しそう!じゃあ、今度の日曜日、一緒に街に繰り出そう!」
そして、約束の日曜日。真司は、美咲が選んでくれた、淡いピンクのワンピースと、可愛らしいパンプスを身につけ、美咲と待ち合わせの場所にいた。
「わあ、真司くん、今日の格好、めちゃくちゃ可愛い!まるでお人形さんみたい!」
美咲は、真司の姿を見て、満面の笑みを浮かべる。真司は少し照れながらも、美咲の言葉に嬉しさを感じた。
二人は、電車に乗り、都心から少し離れた、観光客の多い街へと向かった。
そこには、真司の知る人は誰もいない。
真司は、まるで新しい自分に生まれ変わったかのような、不思議な高揚感を覚えていた。
街を歩く。
誰も真司が男だなんて思っていないだろう。
真司は、心ゆくまで女性として振る舞った。
カフェに入り、可愛らしいラテアートの写真を撮る。
雑貨屋さんで、キラキラしたアクセサリーを眺める。
美咲と並んで歩いていると、まるで本当の姉妹のように見えた。
「真司くん、こっち向いて!写真撮ってあげる!」
美咲は、真司に満面の笑みを向ける。
真司は、美咲のカメラに向かって、可愛らしいポーズを取った。
その写真に映る自分は、真司の知る自分ではなかった。
そこにいるのは、間違いなく、可愛らしくて、少しお転婆な、真理子だった。
その日、真司は、人生で初めて、全く知らない男に口説かれた。
カフェで休憩しているときだった。
隣の席に座っていた、優しそうな雰囲気の男性が、真司に声をかけてきた。
「あの、すみません。突然で申し訳ないのですが、すごくお綺麗なので、つい声をかけてしまいました」
真司は、動揺を隠しきれない。
これまで、男として女性を口説くことはあっても、自分が口説かれるなんて、想像もしていなかった。
真司は、美咲に助けを求めるような視線を送った。
美咲は、面白そうに微笑んでいる。
「あ、ありがとうございます……」
真司は、か細い声で答えるのが精一杯だった。
「もしかして、お仕事されてるんですか?モデルさんとか?」
「いえ、あの……」
真司は、どう答えていいか分からず、言葉に詰まる。
美咲が、助け船を出してくれた。
「すみません、この子、ちょっと人見知りで。もしよかったら、私たち、演劇をしてまして」
美咲が、そう答えると、男性は興味を持ったようだ。
「へえ、演劇ですか!僕も、別の劇団で役者をやってるんですよ。奇遇ですね!」
男性は、真司と美咲に、自分の劇団の話を始めた。
真司は、男性の話を聞きながら、不思議な感覚に陥る。
自分が男として、演劇の話をすることは、日常茶飯事だ。
しかし、女性として、演劇の話を聞くのは、全く違う感覚だった。
男性は、真司を女性として見て、真司に優しく話しかけてくれる。
その優しさに、真司の心は、不思議な高揚感で満たされていく。
「真司くん、大丈夫?」
男性が席を立った後、美咲が心配そうに真司に声をかけた。
「うん、大丈夫。なんか、不思議な感じだった。男の人に口説かれるって、こんな感じなんだな……」
真司は、そう言って笑った。
しかし、その笑みの奥には、「役作り」と「新しい自分の感覚」が入り混じり、揺らぎ始めている、真司自身の心が映っていた。

役作りってここまでやるんですかね?
私個人としては、日常でメイクなんて無理です。
出かけるぎりぎりまで寝ていたいし。
女性のこういうところって尊敬します。
まあ、すっぴんで出かける友人も多々いますけど。
続き
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