
「いらっしゃいませ~♡ お兄さん、ひとり? こっち、空いてるよ!」
その声に、広瀬拓也――32歳、しがないサラリーマンである俺は、思わず足を止めた。
いつものように疲れた体を引きずり、繁華街のネオンが滲むキャバクラの自動ドアをくぐった直後のことだ。
今日の俺は、いつも以上に疲弊していた。
上司からの理不尽な叱責、終わりの見えない残業、そして何よりも、目標を失った人生の虚無感が、鉛のようにのしかかっていた。
振り返った先にいたのは、息をのむような美しさの女性だった。
深い群青色にきらめく瞳は、まるで遠い異国の星屑を閉じ込めたよう。
ゆるく波打つ艶やかな黒髪は、照明の光を吸い込み、漆黒のベルベットのように滑らかに肩を覆っている。
胸元が大胆に開いた深紅のワンピースは、彼女の完璧なまでのプロポーションを惜しげもなく披露していた。
肌は陶器のように白く、どこか浮世離れした、神話じみた雰囲気をまとっている。
だが、それ以上に俺の心臓を鷲掴みにしたのは、その視線だった。
まるで、俺の薄っぺらい表面だけでなく、その奥底に澱む魂までをも見透かすような、どこか挑戦的な、あるいは品定めするような、強く、そしてねっとりとした視線。
「オススメ嬢よ、今日から働いてるの。名前は……そうね、『ミオ』って呼んで」
彼女はそう言って、細く白い指先を俺に差し出した。
その指先に触れた瞬間、なぜだか分からないが、全身に微かな電流が走ったような気がした。
抗うこともできず、俺はまるで操られるかのように、彼女に促されるままボックス席に腰を下ろした。
いつもなら、この場所は俺にとって、ただのガス抜きに過ぎなかった。
会社の愚痴を吐き出し、安酒を流し込み、明日の理不尽な現実に立ち向かうための、一時的な避難所。
だが、この夜は違った。
ミオの存在が放つ、得体の知れない空気が、店内の喧騒さえも遠ざけるかのようだった。
その空間には、ミオと俺、二人きりの密室のような、妙な緊張感が漂っていた。
「拓也さんは、どんなお仕事されてるんですか?」
ミオの声は、耳に心地よい低音で、それでいて不思議な響きを持っていた。
俺はたどたどしく、自分の仕事や日常について話した。
彼女はただ黙って、真っ直ぐに俺の目を見て頷いていた。
その瞳は、まるで俺の言葉の一つ一つを、精密な天秤で測っているかのようだ。
普段なら客の言葉に適当な相槌を打ち、時間稼ぎに徹するキャバ嬢が大半だが、ミオは違った。
彼女は時折、核心を突くような質問を投げかけ、俺の心の奥底に眠る不安や不満を、巧みに引き出していく。
まるで、長年連れ添った夫婦のように、俺の全てを見透かしているかのような感覚に陥った。
「そう……大変だったのね」
彼女の優しい声が、俺の疲弊した心をゆっくりと解き放っていく。
普段は誰にも話せない、弱音や愚痴が、自然と口をついて出た。
ミオはただ、何も言わずに俺のグラスに酒を注ぎ、その隣で静かに微笑んでいた。
その笑顔は、どこか神秘的で、それでいて抗いがたい魅力を放っていた。
気がつけば、あっという間に時間が過ぎていた。
会計を済ませ、店を出ようとしたその時、ミオが俺の耳元にそっと唇を寄せ、囁いた。
「ねえ、あなた、私と入れ替わってみたくない?」
その言葉は、あまりにも唐突で、現実離れしていた。
冗談だと笑い飛ばそうとしたが、彼女の真剣な眼差しに、俺は言葉を失った。
そして、その夜、彼女に何を話したかは、ほとんど覚えていない。
ただ、最後にミオが小声で発したその言葉だけが、まるで呪文のように、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
そして、その呪文は、俺の日常に、奇妙な波紋を広げ始めることになる。
目が覚めた瞬間、全身を襲う尋常ならざる違和感に、俺は飛び起きた。
まず、視界がいつもと違う。部屋の色、匂い、壁にかかった絵画の位置、窓から差し込む光の角度――全てが、見慣れた俺の部屋とは異なっていた。
そして何よりも、この寝具の柔らかな肌触り、漂う甘い香りは、男一人暮らしの殺風景な部屋とは、あまりにもかけ離れていた。
「……なんだこれ?」
俺は寝ぼけた頭で、右手を持ち上げた。
いつも見慣れた、ごつごつとした男らしい手ではない。
そこにあったのは、細く、しなやかで、白磁のように美しい指先だった。
爪には淡いピンク色のマニキュアが塗られている。
恐る恐る、胸元に視線を落とす。
そこには、柔らかく、豊かに膨らんだ感触が確かにあった。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
「まさか……」
震える手でゆっくりと顔に触れる。
頬の感触、鼻筋の高さ、唇の薄さ……どれも、自分の知る「広瀬拓也」のものではない。
恐怖にも似た感情に駆られ、視線を上げた先の鏡に、俺は目を剥いた。
そこに映っていたのは、昨夜、俺を誘惑したあの女性、「ミオ」の顔だった。
深い青の瞳、ゆるく波打つ黒髪、そして、華奢な肩からすらりと伸びる白い首筋。
完璧なまでに整ったその顔は、紛れもないミオそのものだった。
「はあああああ!? なんで俺が……っ」
あまりの衝撃に、俺は情けない悲鳴を上げた。
全身から力が抜け、その場にへたり込む。
混乱と絶望が入り混じった感情が、津波のように押し寄せてくる。
夢だ、これはきっと悪夢に違いない。
そう自分に言い聞かせ、何度も目を開け閉めしたが、目の前の現実は変わらなかった。
その瞬間、耳慣れない軽快な着信音が部屋に響き渡った。
震える手で、枕元に置いてあった、見慣れないスマートフォンを掴む。
ディスプレイに表示された着信名は、「店長」。
ミオが働いていたキャバクラの店長だろう。
何が何だかわからぬまま、俺は電話を取った。
「ミオちゃん、今日から本格デビューだから、遅刻しないようにね~」
明るく、しかし有無を言わせない店長の声が、鼓膜を震わせた。
ガチャ、と一方的に通話は切られた。
まるで、俺の状況などお構いなしに、世界はミオとして生きることを強いているかのようだった。
震える手でスマホを持ちながら、俺は再び鏡の前に立った。
目の前の「自分」は、どこか儚げな表情で、それでも微笑んでいた。
だが、その群青色の瞳の奥には――確かに、底知れない、強い意志が宿っているのが見て取れた。
まるで、俺の混乱を嘲笑うかのように。
『君になって、君の人生を体験してみたいの。嫌なら奪うまでよ』
昨夜、ミオが耳元で囁いた言葉が、脳裏に鮮明にフラッシュバックした。
あの時は、酒に酔った冗談だと思っていた。
まさか、本当にこんなことになるとは……。
俺は、ミオの真意も知らぬまま、その誘惑に易々と乗ってしまったのだ。
目の前のミオの姿をした「俺」は、さらに深く微笑んだ。
それは、俺を歓迎する笑みにも、あるいは、俺の人生を乗っ取った者の凱旋の笑みにも見えた。
俺の人生は、一体どうなってしまうのだろう。
男としての自分は、どこに行ってしまったのだろう。
途方もない不安と、微かな期待が入り混じった感情が、俺の心を支配した。
この体で、俺はこれからどう生きていけばいいのか。ミオの瞳が、俺に問いかけているようだった。
「おはようございますっ……!」
鏡の前で何度も練習した、高くて甘ったるい声を精一杯振り絞りながら、俺――いや、「ミオ」は、慣れないヒールに苦戦しつつも、キャバクラの重い扉を開いた。
昨日までの俺は、ただのしがないサラリーマン広瀬拓也だった。
それが一夜にして、この煌びやかな世界に立つ「ミオ」になった。
まだ現実を受け止めきれないまま、体は震え、心臓は早鐘を打っていた。
店内に入ると、他のキャバ嬢たちの視線が、針のように俺に突き刺さった。
それは、新顔に対する好奇の目であり、同時に、容姿端麗なミオへの嫉妬と警戒の視線でもあった。
最初は冷たい視線に晒され、足がすくみそうになった。
だが、俺は違った。
男として、長年社会で揉まれ、様々な女性たちを見てきた経験が、ここで思わぬ形で活かされた。
客の心理、そして女性同士の駆け引きのパターンは、まるで手に取るように分かる。
これまでの人生で培ってきた、人間観察力と分析力、そして営業職で鍛えられたコミュニケーション能力が、俺の「武器」として、今、この場所で覚醒しようとしていた。
「〇〇さんって、仕事大変そうですよね~。ちゃんと、休めてますか?」
初めて席に着いた客は、見るからに疲弊した中年男性だった。
俺は、彼が普段どんな言葉を欲しているのか、何を求めてここにいるのかを瞬時に見抜き、ほんの一言、相手の疲れに触れる言葉を投げかけた。
それは、ありきたりな労りの言葉ではない。
相手の表情、声のトーン、身なりから読み取れる、具体的な「大変さ」に寄り添う言葉だった。
「え? ああ……まあな」
男性は虚を突かれたように目を見開き、そして一気に表情を緩めた。
俺が彼の抱える心の壁を、たった一言で打ち破った瞬間だった。
そこからは、水を得た魚のように会話が弾んだ。
トーク、リアクション、ボディランゲージ――全てが計算ずくでありながら、まるで自然体であるかのように振る舞う。
相槌のタイミング、目線の配り方、わずかな体の傾け方。
それは、これまでのサラリーマン経験で培ってきた、顧客との信頼関係構築の技術そのものだった。
「ミオちゃん、話しやすいなあ」
「うん、ミオちゃんいると落ち着く」
客からの評判は、あっという間に店中に広まった。
ミオは単なる美しい女性ではない。
彼女は、客の心を読み取り、癒しを与えることができる、異質な才能を持った存在として、瞬く間に注目を集めた。
一週間後、俺はすでに指名トップ3に入っていた。
信じられないほどのスピードだった。
店のオーナーも店長も、そして他のキャバ嬢たちも、ミオの異例の出世に驚きを隠せない。
夜の仕事が終わると、俺は鏡の前に立ち、そこに映るミオの姿をじっと見つめた。
そこには、少し前までの広瀬拓也の面影は微塵もない。
かろうじて残る男としての思考と、目の前の女の体のギャップに、まだ混乱はあった。
だが、それ以上に、この新しい自分自身に対する、奇妙な興奮と満足感が、俺の心を満たしていくのを感じていた。
「これって……俺の才能なのか?」
今まで、自分の人生に何の価値も見出せなかった俺が、この女性の体で、こんなにも輝けるなんて。
この違和感に満ちた現実が、俺に新たな可能性を提示しているような気がした。
男としての広瀬拓也は、平凡で、どこか冴えない存在だった。
だが、ミオとして生きる俺は、特別だった。
この体で、俺は一体どこまで行けるのだろうか。
そんな底知れない期待が、俺の胸に芽生え始めていた。
驚いたのは、何よりも自分自身だった。
最初は違和感しかなかった女の体。
ヒールを履いて歩くたびに足首は悲鳴を上げ、メイクは面倒で、着慣れないドレスは窮屈だった。
だが、日々を重ねるごとに、それらはいつの間にか、俺の日常に溶け込んでいった。
鏡を見るたびに、そこに映る「ミオ」の姿は、以前よりも生き生きと輝いているように見えた。
男だった頃の俺は、疲れた顔で鏡を見ては、ため息をつくだけだった。
しかし、今の俺は違う。
夜の蝶として、美しく着飾り、客の視線を独り占めにするたびに、内側から満たされていくような感覚があった。
「ミオちゃんって、ほんとに……天職だね」
ある日、一番面倒見が良く、気の置けない先輩嬢であるレイナが、営業後にメイクを落としながら、ふとそう言った。
彼女はミオの急激な人気上昇にも嫉妬するどころか、むしろ応援してくれている数少ない仲間だった。
「……そうかもな」
俺は素直に頷いた。
最初は、与えられたこの体で、どうにか生き延びようとする生存本能のようなものだった。
だが、いつの間にか、この体を武器に、自分らしく生きているという実感が強くなっていた。
男だった頃には決して感じることのできなかった、自己肯定感と充実感。
「前よりずっと自分らしい」とさえ思っていた。
この世界は、俺に新しい価値観を与えてくれた。
男社会のしがらみや、理不尽な上下関係。
そういったものから解放され、純粋に「私」の魅力で勝負できるこの場所は、俺にとって、まさしく自由そのものだった。
客との会話も、最初は「仕事」だったが、今では純粋に楽しいと感じるようになっていた。
彼らの悩みを聞き、笑顔を引き出すことに、喜びを感じていた。
俺は、もう「広瀬拓也」ではなくなっていた。
彼は過去の自分であり、この新しい体で生きる「ミオ」こそが、本当の自分なのだと、心の底からそう思えるようになっていた。
女の体で生きることは、新たな感覚と経験を俺にもたらした。
女性特有の繊細な感情の機微を理解し、共感する力が格段に上がった。
それは、人間関係において、そして人生において、非常に大きな武器となった。
俺は、ミオとしてこの夜の世界に羽ばたくことを選んだ。
そして、この選択が、俺の人生を完全に変えていくことを、この時の俺はまだ知る由もなかった。

人って立場が変われば才能開花したりしますからねぇ。
男→女になるのはかなり難しいですが。。。
常にストレス受けながら相手のご機嫌をうかがえるような人は
内面的には案外この手の商売向いてるんじゃないかと。
私は人と話すところから無理なんで、キャバクラとか客としても行けませんが。。。
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