
“この身体、思ったよりもずっと軽いわ……”
白いタキシードに身を包んだ彼女──いや、彼は鏡に映った自分の姿に微笑んだ。
鏡に映るのは、年若く、美しく、そしてあまりにも無防備な男の肉体。
彼女、かつて”水無瀬 梨花”と呼ばれていた女は、今やその名を棄て、新しい身体と名を入手していた。
物語は三ヶ月前、梅雨が始まる少し前の夕暮れに遡る。
梨花はその日、駅前の路地で立ち止まり、狙い通りのタイミングで歩いてきた青年にぶつかった。
「きゃっ、ごめんなさいっ!」
ぶつかった拍子に、梨花の手から小さなジュエリーケースが飛び出し、蓋が開く。
転がり出た指輪は、排水口の隙間に吸い込まれるようにして消えていった。
「えっ……あ、あの、それ……」
「嘘……うそでしょ……!? これ、婚約指輪だったのよ……っ」
梨花は顔面蒼白を装い、膝から崩れ落ちた。
まるで現実を受け入れられないような表情。
青年──佐伯悠馬は混乱しながらも、申し訳なさそうに彼女を助け起こす。
「す、すみません!ぼく、ちゃんと弁償しますから……っ」
「……弁償? これ、200万円もしたのよ……そんなの払えるの?」
悠馬の顔が青ざめたのを梨花は見逃さなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください、そんなに高いんですか……?」
「嘘じゃないわ。これ、ヴァンクリーフの限定品だったの。証明書もあるわよ……ほら」
梨花は用意しておいた偽の保証書を差し出した。
完璧な準備。まるで予行演習のようだった。
悠馬は頭を抱えた。彼にはそんな金額、到底払えるわけがなかった。
そこに、梨花の“提案”が差し伸べられる。
「でも、逃げないで正直に対応してくれたから……少しだけ、特別な提案をしてあげる」
「……特別?」
「この件を帳消しにする代わりに、ちょっとした実験に協力してほしいの」
梨花の目はどこまでも優しく、それでいて狂気を孕んでいた。
儀式は、その晩に行われた。
悠馬は半信半疑のまま、彼女の部屋の奥に案内され、奇妙な呪文と香の煙に包まれた。
意識が朦朧としたかと思うと、世界が崩れるような感覚。
目を覚ました時、彼は自分の手が、胸が、髪が──“女”になっていることに気づいた。
「な……なんだこれ、なんで……っ!? 俺の身体じゃ、ない……!!」
鏡の中に映るのは、年増の女の姿。彼女の身体。
「ようこそ、私の世界へ」
背後から聞こえたのは、自分の声……否、悠馬の身体を手に入れた梨花の声だった。
「おかえりなさい、私の可愛い婚約者さん」
梨花は悠馬の身体を使って新たな生活を始めた。
悠馬──梨花は、自身の元の身体の“面倒を見る”という名目で彼女を雇い、自分の世話をさせた。
「借金は帳消しになったでしょ? でも、あなたはまだ“責任”を取る義務があるの」
悠馬は強く出ることもできず、罪悪感に苛まれながら黙って従った。
慣れない下着、メイク、男の視線。
彼女の身体は、彼に否応なく“女”であることを突きつけてきた。
時間が経つにつれ、悠馬は次第にこの生活に順応していった。 とはいえ、それは順応というよりも、諦念に近いものだった。
彼の中では今も「これは借り物だ」という意識があった。
だが、それでも梨花──いや、彼女になってしまった自分の肉体は毎日を否応なく現実として受け止めさせた。
「今日もお化粧、手伝ってあげようか?」
梨花の声で呼ばれるたび、悠馬の胸は締め付けられる。
かつての自分の声が、今では自分を“彼女”として扱っている。
鏡の中の自分を見ても、もう違和感を完全には打ち消せなかった。
「……ねえ悠馬さん、あなたって、私の身体をちゃんと大事にしてくれてる?」
梨花はある夜、寝室でそう尋ねた。
「もちろん……俺、いや、私は、あの……責任あるし……」
「うふふ、それって愛情ってことかしら?」
冗談めかして言う梨花に、悠馬は返す言葉を見失った。
だが、心の底では気づいていた。
自分はもう、元に戻れない。
指一本、拒む力も持たない。
ある夜、梨花──悠馬の身体は、彼にそっと触れてきた。
「本当の“夫婦”になりましょうか」と。
拒むことも、逃げることもできなかった。
それは罪悪感と、身体が持つ欲望とが入り混じった、奇妙な夜だった。
その日を境に、悠馬は自ら“女”であることを受け入れていった。
翌日、梨花が言った。 「よかった。これで、あなたも私の中で生きられる」
悠馬は微笑んだ──笑うしかなかった。
その笑顔の奥に、自分の意思がどれだけ残っているのかも、もう分からなかった。

割とぎりぎりの年齢で結婚したイメージのイラストにしてみました。
私も相方も、割と自身の線引きとしては結婚するか諦めるか
ギリギリラインで結婚してますからねぇ。。。
納得できるうちにウェディングドレスを着てもらえてよかったです。
私は人生で両方着るとは思ってなかったですが。。。
純潔の檻
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