
都会の喧騒が、健太の耳元で常にざわめいていた。
コンクリートジャングルと呼ばれるこの場所で、システムエンジニアとして働く彼の日常は、コードの羅列と会議室の冷たい空気、そして無限に続く納期に支配されていた。
朝は満員電車に揺られ、夜は疲れ切った体で最寄り駅に降り立つ。
コンビニで買った弁当を温め、味気ない食事を終えると、シャワーを浴びてベッドに倒れ込む。
その繰り返しが、まるで檻の中に閉じ込められた獣のように、彼の心を蝕んでいくようだった。
「健太さん、このバグ、今日中に対応お願いしますね。」
上司の冷徹な声が、モニター越しの彼の耳に届く。
背筋を伸ばし、「はい」と短く答える。
声は、彼自身のものではないかのように、張り詰めていた。
内心では、もう何年も前から、この息苦しい日常から逃げ出したいと叫び続けている。
しかし、そんな本音は、社会という名の硬い殻に閉じ込められ、外に出ることは許されなかった。
家に帰れば、無機質なワンルームが彼を待っている。
スマートフォンの画面を眺めても、SNSに流れる友人たちの充実した生活が、さらに彼の孤独感を募らせるだけだった。
「…もう、うんざりだ。」
吐き出した溜息は、部屋の冷たい空気に溶けて消えた。
彼は自分の人生が、まるで誰かに決められたレールの上をただひたすらに走っているだけの、無個性な人形のように感じていた。
このままでは、いつか心が壊れてしまう。
そう、漠然とした不安が、常に胸の奥に渦巻いていた。
しかし、健太には、誰にも言えない秘密があった。
その秘密だけが、彼をこの閉塞感から救い出し、唯一の希望の光を与えてくれるものだった。
その秘密は、「ミキ」という名前を持っていた。
金曜日の夜は、健太にとって一週間のうちで最も特別な時間だった。
仕事の疲れはピークに達していたが、その心は不思議なほど高揚していた。
明日、彼は「健太」という存在を脱ぎ捨て、「ミキ」になるのだ。
土曜日の朝、健太は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
カーテンを開けると、優しい陽光が部屋に差し込む。
週末のこの光は、平日のそれとはまるで違って見えた。
希望に満ちた、温かい光。
彼は早速、クローゼットの奥に隠された大きなトランクを取り出した。
その中には、健太の日常とはかけ離れた、色とりどりの女性の服がぎっしりと詰め込まれている。
フリルやレースのついたブラウス、膝丈のスカート、ワンピース、ストッキング、そして、慎重に選び抜かれたウィッグ。
全てが、彼が「ミキ」になるための、大切な「道具」たちだ。
トランクを開けるたびに、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
まるで、封印されていたもう一人の自分が、解き放たれるのを待ち望んでいるかのように。
朝食を済ませ、身支度を整えると、健太は自宅を出た。
向かう先は、彼が幼い頃に祖父母と過ごした、少し田舎の町だった。
都会から電車で一時間半ほど。
人里離れたその場所には、彼が人目を気にせず「ミキ」になれる、小さなアパートの一室が借りてあった。
都会の喧騒から逃れ、過去と現在が交錯する、彼だけの「秘密基地」。
電車に揺られながら、健太は窓の外を流れる景色を眺めた。
高層ビルが次第に低くなり、緑が増えていく。
その変化に合わせて、彼の心もまた、ゆっくりと解きほぐされていくのを感じた。
「ふぅ…」深い呼吸と共に、一週間の緊張が肩から抜け落ちる。
この瞬間が、彼の心を徐々に「ミキ」へと導く最初のステップだった。
目的の駅に降り立つと、空気が都会とはまるで違うことに気づく。
排気ガスの匂いはなく、土と草の匂いが混じり合った、清々しい風が頬を撫でる。
駅前のロータリーには、都会のようなタクシーの列はなく、数台の自転車が駐輪されているだけだ。
健太はゆっくりとアパートへ向かって歩いた。
道中、すれ違う人々の表情は穏やかで、都会の住民が見せるような焦りや無関心は感じられない。
彼らの柔らかな笑顔を見るたびに、健太の心にも温かいものが広がる。
アパートの鍵を開け、一歩足を踏み入れる。
古い木造のアパートだが、中は清潔に保たれていた。
この部屋は、彼にとっての聖域だ。
誰にも侵されない、自分だけの空間。
彼はまず、持ってきたトランクを広げた。今日の「ミキ」の衣装を選ぶ。
今日はどんな私になろうか? それは、まるで着せ替え人形のようでもあり、最高の舞台衣装を選ぶ役者のようでもあった。
「今日は…これにしようかな。」
彼が手に取ったのは、優しい水色の膝丈スカートと、白いレースの襟が付いたグレーのブラウスだった。
それに合わせて、ベージュと白のストライプ柄のカーディガン。
足元は、ストラップ付きの可愛らしい水色のパンプス。
まずはシャワーを浴び、肌を清潔にする。
そして、肌のケアを念入りに行った。
化粧水、乳液、美容液。普段の健太なら、これほど時間をかけることはない。
だが、「ミキ」になるためには、全てが大切な儀式なのだ。
ファンデーションを丁寧に塗り、コンシーラーで肌の気になる部分を隠していく。
指先でトントンと叩き込むたびに、彼の肌が、より滑らかで女性らしい質感に変わっていくように感じられた。
アイシャドウは、柔らかなブラウン系を選び、優しくグラデーションを作る。
アイラインは跳ね上げすぎず、自然なアーモンド型を意識した。
チークは頬骨の高い位置にふんわりと。
そして、唇には、少しだけグロスを乗せた。
鏡に映る自分の顔が、徐々に「ミキ」のそれへと近づいていく。
眉の形を整え、マスカラでまつ毛を長く見せる。
細やかな作業の積み重ねが、健太の顔を、別人のように変えていく。
メイクが完成すると、次にウィッグだ。
明るいブラウンのボブヘアを、ブラシで丁寧にとかす。
頭に被ると、一気に印象が変わる。
男性的な健太の顔立ちが、ウィッグのフレームによって、柔らかな女性の輪郭へと変化する。
最後に、服を着ていく。
下着は、レースがあしらわれた可愛らしいものを選んだ。
ブラジャーを身につけると、胸元にふっくらとした膨らみが生まれる。
それだけで、背筋がシャンと伸びるような、不思議な感覚に包まれた。
ブラウスに袖を通し、スカートを穿く。
スカートの裾が膝下でふわりと揺れるのを感じる。
ヒールのあるパンプスに足を入れると、視線が少し高くなる。
鏡に映る「ミキ」は、健太とは全く異なる存在だ。
「うん…悪くない。」鏡の中のミキが、小さく微笑んだ。
その笑顔は、どこか自信に満ちていて、健太が普段見せることのない、無邪気な輝きを宿していた。
まるで、蛹が蝶になるように。
健太は、一週間分の重荷を脱ぎ捨て、自由に羽ばたく「ミキ」へと生まれ変わったのだ。
この瞬間、彼は世界で一番自由な存在だと感じていた。
外界の視線も、社会の常識も、彼には何の障壁にもならない。
ここでは、ただ「ミキ」として存在するだけだ。
準備が整った。
ミキは、肩に小ぶりのハンドバッグをかけ、アパートのドアを開けた。
一歩外に出ると、優しい風が彼女の髪を揺らし、スカートの裾をふわりと持ち上げた。
「さあ、新しい私で、散歩に出かけましょう。」
心の中でそう呟き、彼女は静かに歩き出した。
ストレス解消に普段の自分じゃ出せないことをやるって良いよ!
その一つが女装を含めたコスプレとかだと思う。
やってみるまでは不安ですが、やってしまえば癖になりますよw
あと、別の名前を付けるというのは没入するのに効果的。
そして相方が私の本名を忘れかけると。。。



コメント