
「ねえ、翔真(しょうま)、ちょっとお願いがあるんだけど!」
リビングで漫画を読んでいた俺は、突然背後から響いた姉・美紅(みく)の勢いに、思わず肩をびくっと震わせ、顔を上げた。
この時の彼女の声量と、妙に弾んだトーンは、俺の経験上、間違いなく「面倒事」の予兆だ。
過去にも何度か、彼女の突飛な思いつきに巻き込まれてきた苦い記憶が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
「……また誰かにコスプレのモデル頼まれたとか?」
俺の口から、警戒心丸出しの言葉が飛び出した。
美紅は大学で演劇サークルに入っていて、その関係でよく「ちょっと変わった」友人たちとつるんでいた。
その結果、俺が彼女たちの奇妙な企画に巻き込まれることが多々あったのだ。
一度は、学祭の出し物で、なぜか「着ぐるみの中の人」をやらされたこともある。
あの時の汗と屈辱は、今でも鮮明に覚えている。
「ちがうよー。てか、なんでいきなりコスプレなのさ!」
美紅は目を丸くして、ぷうと頬を膨らませた。
しかし、その顔にはどこか後ろめたいような色が滲んでいる。
やっぱり何か隠してるな、と俺は心の中で確信した。
「じゃあ何だよ? そのテンション、絶対なんか企んでるだろ」
俺が眉をひそめて問い詰めると、美紅は一転して、焦ったような顔になった。
「あーもう、誤魔化しきれないかー。えっとね、実は……着付け教室で使う浴衣の着せ付け実習のモデルを、翔真にやってほしいの!」
彼女の口から出た言葉に、俺は一瞬、思考が停止した。
着付け教室? モデル? しかも浴衣?
頭の中でバラバラの単語が意味をなさないまま、ただただ宙を漂う。
「明日、学校で試験なんだけど、練習相手が急に来れなくなっちゃってさ」
美紅は言葉を続けながら、視線を泳がせている。
どうやら本当に困っているらしい。
だが、納得できない。
男である俺に、浴衣の着付けのモデルを頼むなんて、一体どういう神経をしているんだ。
「はぁ? いやいや、俺男だし、サイズ合わなくない?」
俺の声は、呆れと困惑で、もはや掠れていた。
男と女では、骨格も体格も全く違う。
常識的に考えて、モデルには不向きだろう。
「それがね、ちょうどあんたの体格に合う練習用浴衣があるの!男の子でも着れるように、ちょっと大きめのやつ。ほら、これ!」
美紅は、俺の言葉を遮るように、どこからともなく取り出した大きな風呂敷包みを、勢いよく広げた。
ひらりと舞い降りてきたのは、白地にピンクの花模様が散りばめられた、見るからに「女物」だとわかる浴衣だった。
しかも、花の周りには金色の刺繍が施されていて、なんだかやたらかわいらしい。
可愛らしい、を通り越して、もはや「可憐」とでも言うべきか。
「え、これ……男に着せる気?」 俺は浴衣を指差し、引き攣った声を出した。
その浴衣は、俺の男らしい体格とはかけ離れた、繊細で優美なデザインだった。
これを俺が着る? 正直、想像すらできない。
いや、想像したくもない。
「うん! 実はね、着付け教室の先生が、『男女問わず着せ付けができるようになれ』って言うから、練習用に用意してくれたんだよね。だから、体格が似てれば性別は関係ないって!」
美紅は満面の笑みで力説するが、俺の脳内では警報が鳴り響いていた。
性別は関係ない? いや、大いに関係あるだろう。
男がこんな可愛らしい花柄の浴衣を着て、一体どうなるというんだ。
「絶対イヤだって!」 俺は即座に拒否の意思を表明した。
これだけは譲れない。
俺の男としての尊厳が、それを許さなかった。
「お願いっ! 翔真、頼むよー! 1回でいいからっ! もう本当に時間がないの! この試験、落としたら来年の夏まで資格取れないんだよー!」
美紅は両手を合わせて、懇願するように俺を見つめてきた。
その瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうに見える。
まるで子犬のような上目遣いに、俺は思わず目をそらした。
こういう時の美紅は、本当に厄介だ。
情に訴えかけられると、どうしても断り切れなくなる。
(……めちゃくちゃ頼まれてるけど、男がこんな可愛い柄の浴衣とか、ありえなくないか?)
心の中では、強烈な抵抗感が渦巻いていた。
友人にでも見られたら、一生ものの黒歴史になることは確実だ。
想像しただけで、背筋がゾッとする。
でも、姉はずっと着付けの資格を取るために、休日も返上して頑張っていた。
朝早くから出かけて、夜遅くに帰ってくる姿を何度も見てきた。
テスト前で焦っているのも、その真剣な表情を見れば痛いほど分かる。
俺が協力しなければ、彼女の努力が水の泡になるかもしれない。
数秒間の沈黙が、リビングに重くのしかかった。
俺は俯き、唸るような声を漏らす。
「……1回だけな。本当に1回だけだからな」
最終的に俺は、観念したようにそう呟いた。
自分でも信じられないほど、情けない声だった。
だが、美紅の顔は、一瞬でパッと輝いた。
「やったーっ!翔真、大好きっ!」
美紅は跳び上がらんばかりに喜び、俺に抱きついてきた。
その勢いに、俺はよろめいてソファに倒れこんでしまう。
「てめぇ、抱きつくな! 潰れるだろ!」 俺は必死に抵抗したが、美紅はまるで耳に入っていないかのように、俺の背中をバシバシと叩いた。
その夜、俺は人生で初めて女物の浴衣を着せられていた。
場所は、美紅の部屋だ。
ピンクの花柄が散りばめられた浴衣は、やはり俺のゴツゴツした体にあまりにも不似合いで、鏡を見るたびにゾワッとした悪寒が走る。
「腕あげてー。そうそう、背筋まっすぐ。猫背になっちゃダメだよ、翔真」
美紅は、いつものだらしない恰好からは想像もつかないほど真剣な目で、俺の体に浴衣を合わせていく。
その手つきは、驚くほど滑らかで淀みがない。
まるで、長年培ってきた職人の技を見ているかのようだ。
彼女の指先が、浴衣の裾をピシッと整え、帯を締めるたびに、俺の体はどんどん締め付けられていく。
「はい、こっち向いて。襟元、もう少し開けてもいいかな。うーん、そうだね、やっぱり男の人だと、首元が詰まりすぎると窮屈に見えちゃうし」
美紅はブツブツと独り言を言いながら、何やら難しそうな技をいろいろと繰り出してくる。
帯を締める際の手の動きは、まるで魔法のように複雑で、俺には何がどうなっているのか、全く理解できなかった。
ただ、言われるがままに腕を上げたり、姿勢を正したりするだけだ。
途中から俺は、「モデル」というよりも、もはや「布を巻かれたオブジェ」と化していた。
自分の意思で動くことも許されず、ただ美紅の指示に従って、ひたすらじっとしている。
次第に、恥ずかしさよりも、この状況に対する諦めが先に立つようになっていた。
そして、約30分後。
「……はいっ、できたっ!」 美紅の弾んだ声と共に、俺は全身を鏡で見た。
そこに映っていたのは、――まぎれもなく俺、なのに……。
全身を覆う白地にピンクの花柄の浴衣。
いつもは短く整えている髪は、美紅が勝手に用意してきたウィッグで、肩まで伸びた黒髪になっていた。
さらに、軽くファンデーションを塗られ、眉毛も少しだけ整えられている。
それは、いつもの俺とは全く違う、見慣れない「女の子」の姿だった。
「めっちゃ、女の子っぽい……」 俺は、思わず絶句した。
声も、自分のものではないかのように、少し高く聞こえる。
鏡の中の自分は、少しはにかむように微笑んでいるように見えた。
「でしょー!? やっぱ翔真、顔立ち整ってるし、肌も白いから似合うと思ってたんだ〜」
美紅は、満足げにニコニコしながら、俺の周りを回り込んでいる。
まるで、自分の作品を鑑賞するかのように。
「いや、似合うとかじゃなくて……これは……」
俺は困惑し、思わず自分の頬を押さえた。
いつも触っている自分の肌なのに、なんだか妙に柔らかく感じる。
まるで、別人になったかのようだ。
なんだこれ、俺、なんか妙にドキドキしてる。
恥ずかしいはずなのに、鏡の中の女の子は、妙に可愛らしく見えて、さらに、どこか誇らしげにも見えた。
普段の自分からは想像もつかないその姿に、俺の心臓はドクドクと音を立てていた。
「……なんか、不思議な感じするな」
俺は、絞り出すようにそう呟いた。
この感覚は、初めて経験するものだ。
まるで、もう一人の自分が、鏡の中に現れたかのような。
「でしょ? ふふっ、でもね、私が最初に女装した男の子見た時も、ちょっとドキッとしたんだよね。男でも、可愛いをまとえるんだって」
美紅は、俺の隣に並び、鏡の中の俺と自分を交互に見て、楽しそうに笑った。
彼女の言葉は、俺の心にストンと落ちてきた。
可愛いって、俺に似合う言葉じゃないと思ってた。
男である俺は、「かっこいい」とか「頼りになる」とか、そういう言葉が似合うと思っていた。
むしろ、「可愛い」なんて言われたら、それは侮辱だとすら感じていたかもしれない。 けど――。
「翔真、もしこの浴衣で夏祭りとか行ったら、絶対モテるよ?」
美紅は、ニヤニヤしながら俺の肩を小突いた。
「はぁ!? 行くわけないだろ、女装して祭りとか……」
俺は即座に否定したが、美紅は意地悪そうに笑うだけだ。
「ふふ、じゃあ私とふたりで変装して行こうか?」
からかい混じりの姉の笑顔に、俺は思わず吹き出した。
変装、か。
誰から隠れるんだ、俺の親戚か?
「変装って……誰から隠れるんだよ」
「この可愛い翔真の正体から!」
美紅は、茶目っ気たっぷりにそう言って、俺の背中をポンと叩いた。
俺は思わず、浴衣の袖をぎゅっと握りしめる。
袖の生地は、さらりとしていて、肌触りが良い。
可愛いなんて、自分に関係ないと思ってた。
男だから、そんな感情とは無縁だと思っていた。
けど、今――。
鏡の中の「俺」は、たしかに可愛らしい。
そして、不思議と、その姿に嫌悪感はなかった。
むしろ、少しだけ、いや、ほんの少しだけだが、興味が湧いている自分がいた。
もしかしたら、こういう自分もアリなのかもしれない。
そんな、今まで考えたこともなかったような思いが、心の奥底で芽生え始めていた。
「……まあ、あと1回くらいなら、練習付き合ってやってもいいけど?」
俺は、照れ隠しのようにぶっきらぼうにそう言った。
美紅が焦っているのは本当だし、これで合格できるなら、まあ、損はないだろう。
「おっ、乗り気になってきた?」
美紅は、俺の言葉に目を細めて、ニヤリと笑った。
「ち、ちげーよ。姉ちゃんが困ってるからだってば」
俺は必死に否定したが、声にはすでに、諦めと、ほんの少しの期待が混じっていた。
「はいはい、言い訳しちゃって〜♪」
くすくす笑う姉に肩をすくめながらも、俺はもう一度、鏡の中の自分を見つめた。 そこには、知らなかった新しい自分が、確かに立っていた。
それは、これまで俺が知っていた「翔真」とは全く違う存在でありながら、同時に、確かに「俺」の一部であった。
この新しい自分と、これからどう向き合っていくのか。
俺の心は、静かに波立ち始めていた。

女性物でも男性が着れるサイズの浴衣って割とあるんですよね。
ということを私自身が実感しています。
浴衣は体型もごまかし易いし、着付けできる人がいるならおすすめです♪
女装したいという要望を伝える勇気があれば。。。
女装はしないけど続き
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