
大学二年生の悠斗は、今日もいつものカフェ&雑貨店で働いていた。
木製のテーブルと、壁に並べられた愛らしい雑貨たちに囲まれて過ごす時間は嫌いではなかったが、かといって特別に楽しいわけでもなかった。
悠斗はどちらかといえば目立たないタイプで、無難に日々をこなすことが得意だった。
「悠斗、そこのマグカップ、新入荷分と混ぜないようにね!」
明るく弾むような声が、レジカウンターの向こうから聞こえてきた。
声の主は、同期のバイト仲間、美咲。
ふわふわのショートボブに、いつもきらきらと輝く瞳が印象的な彼女は、店の中でも太陽のような存在だった。
美咲は、どんな客にも分け隔てなく接し、面倒見がよく、そしてなにより、悠斗にとって唯一、心を開ける相手だった。
「うん、わかった」
悠斗が少しだけ声を弾ませて返事をすると、美咲はにこっと微笑んだ。
その笑顔を見るだけで、悠斗の心にも温かいものが灯る気がした。
この店では、来月、年に一度の「シーズンイベント」が開催されることになっていた。
季節ごとにテーマを変え、スタッフが仮装をして接客するという、店にとっての一大イベントだ。
今年のテーマは「おとぎの国のティーパーティー」。
男性スタッフは王子様や騎士、女性スタッフはプリンセスや妖精に扮することになっていた。
「悠斗君、美咲さん、ちょっといいかな?」
店長の穏やかな声に呼ばれ、二人で休憩スペースに向かう。
店長は申し訳なさそうに眉を下げていた。
「実はね、今年のイベント、女性スタッフが一人、急遽参加できなくなっちゃって……人手が足りなくて困ってるんだ」
美咲が「えー!」と声を上げた。
悠斗も同じ気持ちだった。
イベントの規模を縮小するか、それとも開催自体を見送るのか。
店長はどちらも避けたいと考えているようだった。
「誰か、代わりになってくれる人はいないかな……」
店長が悩ましげに呟いた瞬間、美咲のきらきらとした瞳が、悠斗に向けられた。
悠斗は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「店長!いい人いますよ!悠斗君、どうかな?」
「は?美咲、何を……」
悠斗は美咲の言葉に絶句した。
店長も驚いた顔で悠斗を見つめている。
「悠斗君、身長も高くないし、顔も可愛い系だよね。それに、肌も綺麗だし、絶対似合うって!」
美咲は悠斗の腕を掴み、興奮気味にまくし立てる。
悠斗は恥ずかしさで顔が熱くなった。
「いやいや、無理だよ!俺が女装なんて……」
「大丈夫だって!イベント限定だし、どうせウィッグ被るし、メイクするし!悠斗君が可愛くなったら、みんな喜ぶって!」
美咲は店長にも「ね、店長、いいアイデアでしょ?」とキラキラした目で訴えかける。
店長は悠斗の困惑した表情と美咲の熱意に挟まれ、苦笑いを浮かべた。
「うーん……悠斗君、どうかな?美咲さんがそこまで言うなら、似合うのかもしれないし、お願いできないかな?」
店長から直接頼まれ、悠斗は断りきれなかった。
美咲がここまで強く推してくれている。
彼女の期待を裏切るのも悪い気がした。
それに、自分でも不思議と、少しだけ美咲の言葉に心が揺れているのを感じた。
「……わかりました。やります」
悠斗が渋々承諾すると、美咲は「やったー!」と両手を叩いて喜んだ。
「じゃあ、さっそく試着してみようよ!メイクも軽く練習しよう!」
美咲のペースに引きずられるように、悠斗は女性用の試着室へと向かった。
渡されたのは、淡いピンク色のフリル付きワンピースと、茶色いロングウィッグ。
そして、美咲の私物のメイク道具一式。
「まずはウィッグからね。はい、悠斗、ちょっとこっち向いて」
美咲は手慣れた様子で悠斗の髪をまとめ、ウィッグを被せていく。
自分の髪とは違う、するすると指から滑り落ちるような感触に、悠斗は不思議な気持ちになった。
ウィッグは、美咲が選んだだけあって、悠斗の顔に自然に馴染んだ。
「次はメイクね!大丈夫、優しくやるから!」
美咲は悠斗の顔をじっと見つめ、下地を塗り、アイシャドウを丁寧に重ねていく。
普段、自分とは縁のない色とりどりのパレットが、美咲の手によって魔法のように悠斗の顔を彩っていく。
「ふふ、目の形が綺麗だから、アイラインを引くとすごく映えるよ」
美咲の囁き声が、耳元でくすぐったい。
悠斗はただじっと、美咲の指先が自分の顔の上を滑っていくのを黙って受け入れていた。
そして、最後にリップグロスを塗られ、美咲は満面の笑みで言った。
「はい、完璧!さあ、鏡見てみて!」
悠斗はゆっくりと、試着室の大きな鏡に目を向けた。
そこに映っていたのは、見慣れたはずの自分の顔ではなかった。
少しだけ大きな瞳は、ふわりと色づいたアイシャドウで強調され、頬はほんのりと赤く染まっている。
唇は艶やかなピンク色で、まるで花びらのようだった。
そして、肩までかかる柔らかな茶色の髪。
パーカーとジーンズという普段の服装の上に羽織ったフリル付きのワンピースが、不自然なはずなのに、なぜか不思議と馴染んで見えた。
「……誰、これ」
悠斗は思わず呟いた。
鏡の中の自分は、自分の知らない、もうひとりの自分だった。
普段、人前で笑うのが苦手で、少しだけ猫背気味な自分が、鏡の中ではまっすぐ背筋を伸ばし、照れくさそうに、しかし、確かに微笑んでいた。
「だから言ったでしょ?悠斗、絶対似合うって!」
美咲は鏡の中の悠斗を指さし、誇らしげに胸を張った。
悠斗はただ、鏡に映るもうひとりの自分から目が離せなかった。
自分の中に、こんなにも華やかで、可愛らしい「顔」があったなんて、想像もしていなかった。
それは、まるで魔法にかかったような瞬間だった。
イベント当日。
悠斗は開店前に店の裏口で、美咲と待ち合わせをしていた。
いつも通りのパーカーとジーンズ姿で立っていると、向こうから美咲が駆け寄ってくる。
彼女はテーマに沿った、淡い水色のドレス姿で、まるで本物のプリンセスのようだった。
「悠斗!準備はできてる?」
「……まあ、なんとか」
悠斗は緊張で声が上ずった。
昨日、試着室で鏡を見たときの衝撃は忘れられないが、それはあくまでも「練習」だった。
今日は、この姿で客の前に立たなければならない。
想像するだけで、心臓がバクバクと音を立てた。
「大丈夫だよ!私たちがついているから!」
美咲は悠斗の肩をポンと叩き、ロッカールームへと促した。
ロッカールームに入ると、既に他のスタッフたちが準備を終えていた。
男子スタッフは白いシャツと紺のベストを着て、王子様風の出立ち。
女子スタッフはそれぞれに違う色のプリンセスドレスを着て、談笑している。
悠斗は人目を避けるようにロッカーの陰に隠れ、美咲が持ってきたウィッグと衣装、そしてメイク道具を広げた。
「悠斗、手伝うよ!」
美咲は手慣れた様子で悠斗にウィッグを被せ、メイクを施していく。
ファンデーション、アイシャドウ、チーク、リップ……。
一つ一つの工程が進むごとに、鏡の中の「悠斗」が、少しずつ「女の子」へと変身していく。
「よし、メイクは完了!じゃあ、着替えようか」
今日、悠斗が着る衣装は、フリル付きのピンク色のパーカーに、白いスカート、そして茶色のブーツという、少しカジュアルなプリンセススタイルだ。
フリルが多すぎるワンピースは恥ずかしい、という悠斗の意見を汲んで、美咲が特別に用意してくれたものだった。
「わあ、かわいい!すごく似合ってる!」
着替えを終え、全身を鏡に映すと、美咲が感嘆の声を上げた。
悠斗は照れくさくて視線をそらす。
鏡に映る自分は、確かに「女の子」だった。
しかも、昨日見たよりも、今日の方が何倍も自然に見える。
メイクもウィッグも、もう「付け焼刃」ではなく、まるで自分の顔の一部のように馴染んでいた。
「本当に、悠斗って女の子みたいだね」
美咲が微笑みながら言った。その言葉は、悠斗の心を温かく満たした。
そして、いよいよ開店時間。
「おとぎの国のティーパーティーへ、ようこそ!」
店長の声が店内に響き渡り、イベントがスタートした。
悠斗は美咲と一緒に、入り口で客を迎え入れる役目を任された。
「いらっしゃいませ!」
最初の客は、小さな女の子とその母親だった。
母親はにこやかに微笑み、女の子は目を丸くして悠斗を見つめている。
「ママ、あのお姉さん、お人形さんみたい!」
女の子の言葉に、悠斗はドキリとした。
生まれて初めて、他人に「お姉さん」と呼ばれた。
それは、驚きと同時に、何とも言えない不思議な高揚感を悠斗にもたらした。
「ふふ、ありがとう。ゆっくりしていってね」
悠斗はぎこちなくも、精一杯の笑顔を向ける。
すると、女の子は嬉しそうに微笑んだ。
その日、悠斗は多くの客と接した。
常連客のおばあちゃんには「あら、新しく入った子?可愛いわね」と頭を撫でられ、小さな男の子には「お姉ちゃん、お菓子ちょうだい!」と無邪気にねだられた。
最初は、客が自分を「女性」として見ていることに、戸惑いを隠せなかった。
声をかけられるたびに、自分の声が低くないか、仕草はぎこちなくないか、と内心ビクビクしていた。
しかし、不思議なことに、時間が経つにつれて、その緊張は次第に薄れていった。
「お姉さんの笑顔、素敵だね!」
ある女性客にそう言われたとき、悠斗は自然と笑顔がこぼれていることに気づいた。
そして、その笑顔が、心からのものだということも。
普段の自分は、人前でこんな風に心から笑うことはなかった。
周りの目を気にして、感情をあまり表に出さず、ただ無難に過ごすことを選んできた。
でも、この「もうひとりの自分」は、堂々と笑い、客と話し、心を通わせることができた。
「やっぱり、悠斗は笑顔が一番だね!」
休憩時間、美咲がスマホを悠斗に向けた。
「え、ちょっと待って!写真なんて……」
悠斗が慌てて顔を隠そうとすると、美咲は「いいからいいから!」とシャッターを切った。
「ほら、見て!すごくいい顔してる!」
美咲がスマホの画面を見せてくれた。
そこには、恥ずかしそうに、でも確かに微笑んでいる自分がいた。
普段の自分の写真とは、明らかに違う、生き生きとした表情。
「……本当だ」
悠斗は、その写真に映る自分を、素直に「良い」と思った。
それは、自己肯定感というよりも、まるで自分の中に眠っていた「何か」が、解放されたような感覚だった。
イベントの後半、悠斗はバイト仲間の男子、健太と一緒のシフトになった。
健太は、普段から明るく、女子にも分け隔てなく接するタイプだ。
「あれ、この子、新入り?てか、めっちゃ可愛いじゃん!」
健太は悠斗の顔をまじまじと覗き込み、ニヤニヤと笑った。
「……えっと、健太君、からかわないでよ」
悠斗が低い声で返事をすると、健太は目を丸くした。
「は?今の声、悠斗じゃん!マジか、お前、すげぇな!女装似合いすぎだろ!」
健太は驚きと面白さが入り混じった顔で笑った。
そして、冗談めかして、悠斗の腕に自分の腕を絡ませるようにして言った。
「なぁ、お姉さん。バイト終わったら、俺と二人で打ち上げ行かない?」
健太は笑いながら言っている。
それは、いつもの彼らしい、からかいの言葉だった。
しかし、悠斗はなぜかドキリと心臓が跳ねるのを感じた。
「……馬鹿なこと言わないでよ」
悠斗は戸惑いながらも、健太の腕を振り払おうとした。
「冗談だって!でも、マジで可愛いから、バイト終わったら連絡先教えてよ」
健太はそう言って、再びニヤニヤと笑った。
その瞬間、悠斗は自分の心の中に、少しだけ、本当に少しだけだが、寂しさが芽生えたのを感じた。
健太が冗談だと分かっているのに、なぜか、本当に「女の子」として口説かれたいと、心のどこかで願っている自分に気づいてしまったのだ。
イベントは無事に終了した。
一日中、高いヒールのブーツを履いていた足は棒のようだったが、悠斗の心は不思議な高揚感に満たされていた。
イベントが終わり、悠斗は男の姿に戻った。
ウィッグを外し、メイクを落とし、私服に着替える。
鏡に映るのは、いつもの、地味で、少しだけ垢抜けない自分。
「はあ……」
悠斗は、深い溜息をついた。
バイトの休憩室には、まだイベントの余韻が残っていた。
他のスタッフたちは、楽しかった出来事を話したり、写真を撮り合ったりしている。
その輪の中に、悠斗は加わることができなかった。
イベント中、あれほど自然に笑い、人と話すことができたのに、男の姿に戻った途端、いつもの自分に戻ってしまう。
人々の楽しそうな声が、遠い世界のことのように聞こえた。
「悠斗、お疲れ様」
美咲が、悠斗の隣に座った。
彼女はもう制服に着替えていた。
「お疲れ。……美咲、どうだった?」
悠斗が尋ねると、美咲は満面の笑みで答えた。
「もちろん、大成功!悠斗のおかげだよ!特に、子どもたちに大人気だったね!」
美咲の言葉に、悠斗は少しだけ頬を緩めた。
「そうかな……」
「そうだよ!悠斗、本当に可愛かったもん。それに、すごく楽しそうだった」
美咲は、悠斗の顔を覗き込むようにして言った。
「……そう、かな。でも、疲れた。なんか、自分じゃないみたいで」
悠斗は正直に話した。
美咲は、その言葉に静かに耳を傾けてくれた。
「うん、そうだね。でも、私はどっちの悠斗も好きだよ。それに、女の子の悠斗、すごくいいよ」
美咲は、真っ直ぐな目で悠斗を見た。その言葉に、悠斗は胸が熱くなるのを感じた。
「だって、今日の悠斗は、普段よりもっと、堂々と笑えてた」
美咲の言葉は、悠斗の心に深く刺さった。
そう、美咲が言う通りだった。
普段の自分は、どこか自信がなくて、いつも一歩引いてしまう。
でも、女装の自分は、そんな臆病な自分から解放されて、心から笑うことができた。
「なんか、変な感じ。自分じゃないのに、自分だったみたいな」
悠斗が正直な気持ちを口にすると、美咲は優しく微笑んだ。
「変じゃないよ。それは、悠斗のもうひとつの顔なんだよ。ねえ、このまま終わっちゃうのもったいないと思わない?」
「え?」
「イベントのためだけなんて、もったいないよ。悠斗、もしよかったら、今度、休みの日にもう一度、やってみない?」
美咲の提案に、悠斗は驚き、戸惑った。
バイトのイベントという特別な状況ならまだしも、プライベートで女装をするなんて、考えたこともなかった。
しかし、美咲の真剣な眼差しと、自分の中に残る、あの不思議な高揚感が、悠斗の背中を押した。
「……うん、やってみる」
悠斗の言葉に、美咲は「やった!」と再び両手を叩いて喜んだ。

女装って、きっかけは割と他人からの強制だったりもするみたいです。
会社のイベントでやらせれるとか、学校のイベントだったりとか
その時に結構本人の中には印象に残ってしまうみたいですね。
そしてそのまま女装の場を求めてしまうという。。。
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