
「はぁ……また落ちたか」
スマートフォンの冷たい画面に表示された不採用通知を眺めながら、俺、遥人(はると)は深く、深くため息をついた。
大学の授業と両立できるアルバイトを探し始めてすでに一ヶ月。
学費と生活費を稼ぐ必要があり、焦りは募る一方だった。
カフェ、コンビニ、居酒屋、塾講師……片っ端から応募しているのに、どこもかしこも「シフトに融通が利かないと困る」「経験者優遇」だの、はたまた「時給は最低賃金だが、やりがいはある」といった、耳障りのいい言葉で低賃金を正当化するような話ばかり。
人手不足だと嘆く割に、門戸は狭い。苛立ちが募る。
そんな鬱々とした日々の中、何気なく開いたTwitterのダイレクトメッセージに、見慣れない通知が届いていた。
《高額報酬:1日2時間、週1回。恋人役アルバイト、興味ありませんか?》
「……は?」
思わず声が出た。
怪しい。あまりにも怪しすぎる。
明らかに胡散臭い案件だ。
詐欺か、あるいはもっと悪質な何か。
すぐに閉じるべきだと思ったのに、指が勝手に添付されているリンクをタップしてしまった。
開いたページは驚くほど簡素な作りで、個人情報入力欄なども一切ない。
ただ、依頼内容が淡々と記されているだけだった。
《依頼内容:外出先での恋人役を演じていただきます。見た目は女性であることが必須条件です。報酬:1回につき2万円》
「見た目は女性……?」
俺は眉をひそめた。
奇妙な条件だ。
男である俺には関係のない話だろう。
だが、ふと、ある記憶が脳裏をよぎった。
去年の学園祭でのことだ。
クラスの出し物で、軽い罰ゲームのつもりで女装メイクをさせられたことがあった。
その時、メイク担当だった友人の美咲が、仕上げに俺の顔を見て大爆笑しながら言ったのだ。
「ちょっと、遥人!これ、本物の女子より可愛いんだけど!やだ、私より可愛いとかマジムカつく!」
その時は冗談だと思って笑い飛ばした。
まさか、そんな馬鹿げたことが現実に繋がるなんて。
しかし、報酬の「1回につき2万円」という破格の金額が、俺の理性を麻痺させた。
週1回で月に8万円。それがあれば、当面の生活は何とかなる。
大学の費用も賄えるかもしれない。
「やってみるか……?」
俺はもう一度メッセージを読み返した。
そこには、「応募はこちらから」とだけ書かれたメールアドレスが記されていた。
指先が震えた。軽い気持ちだった。
まさか、この一歩が、俺の人生を大きく変えることになるなんて、この時の俺は知る由もなかった。
数日後、メールのやり取りを経て、依頼主と待ち合わせたのは、表参道の洒落たカフェだった。
俺は指定された服装で、待ち合わせ場所へ向かった。
指定されたのは、いわゆる「量産型女子」と呼ばれるファッション。
軽いカールを入れたブラウンのウィッグは、さらさらと肩に落ちる。
白いセーラーカラーのブラウスに黒のプリーツスカート、そして足元は黒のタイツと、ヒールの低いパンプス。
鏡に映る自分は、確かに「女性」だった。
メイクも、美咲に教えてもらった動画を参考に、見よう見まねで施してみたが、我ながら悪くない仕上がりだと自画自賛していた。
内心は不安でいっぱいだ。
こんなバイト、本当に大丈夫なのか。
もし変な方向に進んだら、すぐに逃げ出そう。
そう心に決めながら、店の前に立った。
「はじめまして。佐伯といいます」
店の入り口でキョロキョロしていると、落ち着いた、それでいて深みのある声が背後から聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは、俺よりも一回り以上年上に見える男性だった。
すらりとした体躯に、上質なダークスーツが完璧にフィットしている。
会社員というよりも、経営者、あるいはどこかの企業の重役といった風格が漂っていた。
彼の端正な顔立ちと、物腰の柔らかい雰囲気に、俺は思わず息を呑んだ。
想定していた「怪しい人物」とはかけ離れた印象だ。
「は、初めまして。遥香、です……」
思わず上ずった声で、女性の名前を名乗った。
恥ずかしさがこみ上げる。
普段は「遥人」として生きているのに、「遥香」と名乗る自分に違和感と、ほんの少しの興奮が入り混じる。
しかし、佐伯は俺のぎこちない返答にも、一切動じる様子を見せない。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、軽く頭を下げた。
「佐伯です。本日はありがとうございます。お会いできて光栄です、遥香さん」
その丁寧な言葉遣いに、俺はますます戸惑いを覚えた。
この人は、本当に俺が男だということに気づいていないのだろうか。
それとも、気づいていて、あえて何も言わないのか。
「今日の服装、とてもよく似合っていますよ。自然で素敵です」
佐伯の視線が、俺の全身をゆっくりと見渡す。
その目に、嘲りや訝しむ色は一切なく、純粋な称賛が宿っているように見えた。
俺の顔は、思わず熱くなる。
演技のつもりで着飾っただけの女装なのに、本心から褒められると、どうしようもなく嬉しい。
胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
絞り出すようにそう答えるのが精一杯だった。
佐伯は俺の反応に満足したのか、にこやかにカフェの扉を開けてくれた。
「さあ、どうぞ」
店内の落ち着いた空間に足を踏み入れると、佐伯は窓際の席をスマートに勧めてくれた。
注文を済ませ、向かい合って座ると、佐伯は改めて口を開いた。
「いくつか、確認したいことがあります。まず、このアルバイトの目的ですが……」
佐伯はそこで言葉を区切った。
俺はごくりと唾を飲み込む。どんな目的を言われるのだろう。
変なことだったらすぐに帰ろう。
警戒心をMAXにしながら、彼の次の言葉を待った。
「私の周りが、最近、結婚を勧めてくるんです。正直なところ、今は全くその気がありません。しかし、強く断り続けても角が立つ。そこで、恋人がいると示すことで、彼らを納得させようと考えました。世間体、とでも言いますか」
佐伯の口から出た言葉は、予想外に真っ当な理由だった。
なるほど、結婚しないといけないというプレッシャーからの逃げ道、ということか。
それは、なんとなく理解できる。
しかし、疑問が残る。
「では、なぜ、その……レンタル彼女ではなく、このアルバイトという形式を?」
俺は恐る恐る尋ねた。
彼の視線が、一瞬だけ泳いだように見えた。
「レンタル彼女だと、どうしてもビジネスの関係が透けて見えてしまうことがあると聞きます。もっと、自然な関係に見せたかった。そして、正直なところ……男性が来ることは、完全に想定外でした」
佐伯の言葉に、俺は思わず目を見開いた。
やはり、俺が男だということは気づいていなかったのか。
それとも、気づいていて、あえて言わずにいたのだろうか。
彼の表情からは、一切の動揺が読み取れない。
ただ、少しだけ困惑の色が浮かんでいるように見えた。
「もちろん、事前に『見た目は女性であることが必須条件』と伝えたので、その点では、遥香さんは条件を満たしています。ただ、正直なところ……」
佐伯はそこで言葉を詰まらせ、俺の目をじっと見つめた。
その視線は、俺のウィッグやメイクの奥にある「遥人」の存在を、見透かそうとしているかのようだった。
「遥香さんが男性である、と認識した上で、このアルバイトを継続するかどうか、今、最終確認をさせてください。もし、ご不快であれば、ここで辞退していただいても構いません。もちろん、謝礼はきちんと支払います」
彼の言葉に、俺は動揺を隠せないでいた。
やはり、気づかれていたのか。
それとも、俺の動揺を見て、確信に変わったのか。
だが、佐伯の言葉には、どこか誠実な響きがあった。
俺を馬鹿にするような色も、利用しようとする悪意も感じられない。
むしろ、俺の気持ちを尊重しようとしているようにすら思えた。
「……いえ、大丈夫、です。やらせて、いただきます」
一度引き受けた以上、簡単に引き下がるわけにはいかない。
それに、こんな好条件のバイトは他にない。
それに、佐伯の落ち着いた対応に、少しだけ安心感を覚えていた。
「ありがとうございます。では、今後は『恋人』として、私と共に振る舞っていただきたい。それ以外の私的な詮索は一切いたしませんし、遙香さんのプライバシーも尊重します。もちろん、肉体的な接触も、遥香さんが嫌がることは一切ありません」
佐伯は、俺の不安を先読みしたかのように、明確に告げた。
その言葉に、俺の心の底にあった警戒心が、少しずつ溶けていくのを感じた。
最初の「仕事」は、佐伯の取引先の人物との会食だった。
格式ばった料亭の個室で、佐伯と俺、そして二人の男性が向かい合って座る。
俺は「佐伯の恋人」という役割を完璧に演じることに集中した。
笑顔を絶やさず、佐伯の話に相槌を打ち、時には少しだけ甘えた声を出す。
食事を取り分けるフリをして彼の腕にそっと触れたり、目を合わせて微笑みかけたり。
「いやぁ、佐伯さん、素敵な彼女さんですねぇ。お若いのに、しっかりしてらっしゃる」
取引先の部長らしき人物が、にこやかに俺に目を向けた。
俺はにっこりと微笑み返す。
「ありがとうございます。佐伯さんのこと、いつも頼りにしてるんですよ。仕事の話になると、本当に格好良くて……ついつい、見とれちゃいます」
わざとらしく、少しだけ頬を赤らめてみせる。
佐伯は、俺の言葉にわずかに目を細め、照れたように笑った。
「はは、遥香にそんなふうに言われると、どうも調子が狂いますね」
そのやり取りは、まるで長年連れ添ったカップルのようだった。
佐伯のスマートな返しに、俺は内心驚いた。
彼もまた、「恋人役」を完璧に演じている。
そして、その演技は、俺を「彼女」として扱い、エスコートしてくれている。
飲み物が減ればすぐに気づいて注文してくれたり、会話の途中で俺が困っていると、さりげなく助け舟を出してくれたり。
彼の細やかな気遣いが、俺の緊張を少しずつ解き放っていく。
最初はただのアルバイトだと割り切っていたはずなのに、演じるうちに不思議な感覚が湧いてきた。
佐伯が「遥香」として接してくれるその瞬間、まるで本当に自分が「彼女」であるかのような安心感に包まれるのだ。
彼が差し伸べてくれる気遣いや、優しい眼差しは、今まで「遥人」として生きてきた中では経験したことのないものだった。
「遥香ちゃんは、どんな男性がタイプなんですか?」
食事も終盤に差し掛かった頃、取引先のもう一人の人物が、俺に尋ねた。
俺は佐伯をちらりと見て、にこりと微笑んだ。
「そうですね……やっぱり、佐伯さんみたいに、落ち着いてて、頼りになる人が好きです。あと、私の話を、ちゃんと聞いてくれる人」
佐伯は、俺の言葉に一瞬だけ目を伏せた。
その横顔は、照明の関係か、少しだけ寂しそうに見えた。
俺は、そのわずかな表情の変化を見逃さなかった。彼もまた、何かを抱えているのだろうか。
会食が終わり、佐伯と二人でタクシーに乗り込んだ。夜の表参道の街並みが、窓の外を流れていく。
「お疲れ様でした、遥香さん。今日の演技も、完璧でした」
佐伯の声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
「佐伯さんも。すごく自然で、助けられました」
俺は素直な気持ちを伝えた。
彼のスマートなエスコートがあったからこそ、俺も「遥香」として振る舞うことができたのだ。
「特に、あの『見とれちゃいます』という言葉は、非常に効果的でした。まさか、ああいう言葉が出てくるとは思いませんでした」
佐伯が、少しだけ口元を緩めて言った。
「え、あ、はい……佐伯さん、本当に仕事の話になると、普段とは違うオーラがあって、つい」
言葉が出てこない。つい、本当にそう思ってしまったからだ。
彼は、仕事の場面では、普段の穏やかな雰囲気とは違う、鋭い眼差しをしていた。
そのギャップが、俺の心をわずかに揺さぶっていた。
佐伯は俺の動揺に気づいたのか、優しく微笑んだ。
「それは、光栄です。私も、遥香さんの存在に、何度か助けられましたよ」
その言葉に、俺の胸は高鳴った。彼は、俺が「遥人」だということを知っている。
それなのに、「遥香」として、一人の女性として、俺の存在を肯定し、感謝してくれている。
それは、これまで味わったことのない、温かい承認感だった。
これまで、自分の性別について深く考えることもなかった。
ただ「男」として生きてきた。しかし、「遥香」として扱われる心地よさは、抗いがたい魅力を放っていた。

BL風な話になってきてしまいました。
やっぱり、頼りになる人に優しくされると嬉しくなりますよ♪
女装してるときは、頼りたいし、優しくされたい。
まあ、そんな風に扱ってくれる人はあんましいませんけどね♪
でもそういう出会いの場もあるらしいです。行ったことないけど。
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