
突然の入れ替わり五月の風が、若葉の匂いを運んでくる。
新緑が眩しい季節なのに、俺の心は鉛のように重かった。
いや、正確には「重かった」んじゃない。
「ふざけんな、マジかよ」っていう、怒り、絶望、混乱がごちゃ混ぜになった、名状しがたい感情の塊だった。
「…おい、嘘だろ」目の前の鏡に映っているのは、知らないおばさんだった。
くしゃりと笑うと目尻に皺が寄る。
ぷにぷにだった頬は、重力に逆らえずにたるんでいる。
艶やかだった黒髪は、乾燥してパサつき、ところどころ白髪まで混ざっている。
冗談だ、と誰かに言ってほしかった。
ドッキリか? いや、そんなわけない。
自分の意思で動かせる手は、シミが浮き出た、見慣れない皮膚に覆われている。
喉の奥から絞り出した声は、掠れて甲高く、まるで他人の声だった。
「おばさん……いや、おばあさん……?」
いや、それにしては少し若いか。
40代後半から50代前半、といったところか。
とにかく、鏡の前のこの女が、紛れもなく俺、翔本人だという事実は、どうやったって覆せない。
ついさっきまで、俺は翔だった。
20歳、大学生。サークルとバイトと、たまの授業。
友達とバカやって、朝までゲームして、恋の駆け引きをして……。
まさに青春を謳歌している、ごく普通の大学生だった。
それが、どうしてこんなことに。
事の発端は、ほんの数時間前だ。繁華街の裏通り。
夕暮れのオレンジ色が、アスファルトの隙間に溜まった水たまりに反射している、そんな薄暗い場所だった。
「お兄さん、ちょっといいかい?」
声をかけてきたのは、妙子と名乗る妙に薄汚れた中年女性だった。
妙子さんは、俺より少し背が低く、猫背気味で、どこか影のある人だった。
その瞳の奥に、強い執念のようなものが宿っているのを感じた。
「なあに、おばさん。今忙しいんだけど」
「忙しい、忙しい……若いってのは、そういうものだね」
妙子さんは自嘲するように笑った。
その顔には、深い皺が刻まれていた。
「いいかい、お兄さん。私はね、あなたのその若さが、喉から手が出るほど欲しいんだよ」
妙子さんの言葉に、俺は思わず吹き出してしまった。
「はは、おばさん、何言ってんの? 若さが欲しいって、冗談キツイって」
「冗談じゃないさ。私はね、この醜い老いぼれた体が、もう耐えられないんだ」
妙子さんはそう言って、懐から怪しげなお守りを取り出した。
それは、不気味な模様が彫られた木片だった。
その木片が、微かに光を放っているように見えた。
「これは、昔から伝わる、特別な力があるお守りなんだ。これを使えば……」
妙子さんは、お守りを俺の目の前にかざした。
その瞬間、俺の視界は真っ白な光に包まれた。
熱い、そして冷たい。
そんな矛盾した感覚が全身を駆け抜けた。
耳鳴りがして、意識が遠のいていく。
次に意識が戻ったのは、今、この場所だった。
薄暗い雑居ビルの隅にある、安っぽいトイレ。
そして、目の前の鏡に映る、見知らぬおばさん。
「やった……やったぞ!」奥から、歓喜の声が聞こえる。
それは、妙子さんの声だった。
「この体が、この若さが、私のものだ! 見てみろ、このしわ一つない肌を! この張りのある体を!」
俺は、妙子さんの声に引き寄せられるように、トイレのドアを開けた。
そこに立っていたのは、俺だった。
俺の、若い、引き締まった体。
いつも着ているお気に入りのパーカーとジーパン。
そのパーカーから伸びる手は、白く、細く、しわひとつない。
「妙子さん……!」
俺は、妙子さんの名前を呼んだ。
だが、その声は掠れて、弱々しかった。
「ああ、あんたか。その醜い体と声、ようやく手放せたよ。あんたには感謝しないとな。でも、もう用済みだ」
妙子さんは、俺の顔を見て、心底嬉しそうに、そして冷笑的に笑った。
「あんたの青春、私が代わりに謳歌してやるよ。せいぜい、その醜い体で、惨めな人生を送りな」
そう言い残して、妙子さんは雑居ビルの階段を駆け降りていった。
その足取りは、軽やかで弾んでいた。
まるで、新しいおもちゃを手に入れた子供のようだ。
俺は、その場に崩れ落ちた。
絶望が、俺の全身を支配した。
「嘘だ……嘘だろ……」
声は震えていた。
しわの寄った手で顔を覆う。
その手から伝わる感触は、もう俺のものではない。
若さ。それは、当たり前のように存在するものだった。
だが、今、俺からそのすべてが奪われた。
失ったのは、若さだけじゃない。
俺のアイデンティティ、俺の人生、俺のすべてが、一瞬にして消え去ったのだ。
この絶望を、一体誰に伝えればいい? 誰が信じてくれる?
「俺は……俺は、どうすればいいんだ……」
声に出して、そう呟いた。
だが、返ってくるのは、俺の知らない、年老いた女の声だけだった。

こんな人がいたらかなり怖いです。
とはいえ、他人が持ってるものを奪えるのなら
奪ってしまおうと考えている人も結構いるかと思います。
具体的には、制度を悪用して日本に来ている偽物の難民。
身体を奪われるはフィクションですが
人生や未来を奪われるは、今後本当に起きてしまうかもしれない。。。
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