
夕暮れの光が、一人暮らしのワンルームに斜めに差し込んでいた。
大学生の蓮(れん)は、読みかけのデザイン雑誌を膝に置き、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
もうすぐ新しい課題の締め切りが迫っている。
わかっているのに、なぜか手につかない。
蓮は今日もまた、自分の世界に閉じこもっていた。
蓮は昔から、人と話すのが得意ではなかった。
特に初対面の人や大勢の前に出ると心臓がバクバクと高鳴り、声が上ずってしまう。
そのせいで、人からは「やる気がない」「暗い」と誤解されることも多かった。
デザインを学んでいるのは人と直接関わることなく、自分の内面を表現できるから。
黙々とパソコンに向かい、色や形を組み合わせる時間は、蓮にとって唯一、安心して自分を解放できる瞬間だった。
しかし、それさえも、最近は周囲の評価が気になって、思うように集中できなくなっていた。
「蓮くーん、いる?」
扉の向こうから、明るく、少し高めの声が響く。
幼なじみの美咲(みさき)だ。
蓮は慌てて立ち上がり、扉を開けた。
美咲は、太陽みたいに明るい笑顔を振りまき、小さな紙袋を蓮の前に差し出した。
「お疲れさま。はい、差し入れ!」
中には、蓮が好きな有名店のクッキーがぎっしり詰まっていた。
美咲は、蓮の数少ない大切な友人だった。
彼女は蓮の気弱な性格をよく理解していて、決して無理に輪の中に引き込もうとはしなかった。
ただ、いつもそっと、寄り添ってくれた。
「ありがとう。わざわざ悪いよ」
「いいのいいの! それより、顔色悪いよ? ちゃんと寝てる?」
美咲は心配そうな目で蓮の顔を覗き込む。蓮はごまかすように笑った。
「大丈夫。ちょっと、課題がね」
「また徹夜?」
美咲は蓮の部屋に入ると、散らかった雑誌やデザイン画をさっと片付け始めた。
その手際のよさに、蓮はいつもながら感心する。
「この間ね、蓮くんに似合いそうなの見つけたんだ」
美咲はそう言いながら、自分のスマホの画面を蓮に見せた。
そこに映っていたのは、淡いピンク色のニットと、繊細なレースがあしらわれたスカートだった。
「これ……レディース、だよね?」
「うん! でもさ、蓮くん、顔立ちが中性的だし、背もそんなに高くないから、絶対似合うと思うんだよね」
美咲の言葉に、蓮は思わず苦笑した。
「冗談は勘弁してよ」
「冗談じゃないってば! ほら、このニットとか、色白な蓮くんにぴったりじゃん? ね、ね、一回だけでいいから着てみてよ!」
美咲は目をキラキラと輝かせ、まるで面白そうなゲームを見つけた子どものようにはしゃいでいた。
蓮は、そんな美咲の勢いにタジタジになる。
「いや、さすがにそれは……」
「いいじゃん! どうせ家の中にいるんだから。誰にも見られないよ。ね、お願い!」
美咲の熱心な誘いに、蓮はいつものように「嫌だ」と強く言い返すことができなかった。
結局、蓮の気弱さが、美咲の好奇心に負けてしまった。
「……わかった。でも、本当に一度だけだからね」
「やったー! さすが蓮くん! じゃあ、今度持ってきてあげるから!」
美咲は満面の笑みでそう告げると、蓮の肩をポンと叩いた。
「もうすぐ夏休みだし、気分転換も必要だよ。ね?」
美咲の言葉に、蓮は曖昧に頷くことしかできなかった。
その日から、蓮の心の中には、奇妙な期待と、それ以上の不安が渦巻いていた。
美咲の言うように、もし本当に「似合う」のだとしたら、自分はどんな風になるのだろうか。
そんなことを考えては、すぐに「馬鹿らしい」と打ち消す。
女装なんて、ありえない。
自分は、こんなに臆病で、人前に出るのが苦手な男なのに。
鏡に映る自分は、いつも自信なさげで、どこか影が薄い。
そんな自分が、女性の服を着たところで、何かが変わるはずがない。
そう信じ込もうとしていた。
美咲が帰った後、蓮はクッキーの袋をテーブルに置き、再び雑誌に目を落とした。
だが、もうデザインのことなど頭に入ってこない。
さっきの美咲の言葉と、スマホに映っていた淡いピンクのニットが、頭の中にこびりついて離れなかった。
「……ほんとに、どうなるんだ、俺」
蓮は独り言を呟き、大きくため息をついた。
この小さな、冗談めいた提案が、彼の人生を大きく変えることになるとは、まだ知る由もなかった。
美咲は、蓮の部屋に週に一度は顔を出すようになった。
その度に、彼女は様々な女性用の服や小物を持ち込んできた。
それは、まるで秘密のファッションショーを準備するかのようだった。
「はい、今日の衣装!」
美咲が広げたのは、蓮が雑誌で見た淡いピンクのニットと、ふんわりとしたプリーツスカートだった。
スカートには、銀色の糸で星のような模様が刺繍されていて、光を受けてきらきらと輝いている。
「本当にやるのか……」
蓮はためらいがちに呟いた。
美咲は、蓮の言葉を待たずに、クローゼットから一番サイズの合いそうな服を選び出し、蓮に差し出した。
「大丈夫だって! 一回きりだよ。私、メイクも持ってきたからね」
そう言って、美咲は小さなポーチから化粧品を並べ始めた。
蓮は抵抗する気力もなく、美咲のされるがまま、服を着替えた。
着慣れないプリーツスカートが足に触れる感触に、ゾワリと背筋が震える。
「……なんか、変な感じ」
「大丈夫、大丈夫! メイクすれば一気に変わるから!」
美咲は蓮を椅子に座らせ、慣れた手つきで蓮の顔にファンデーションを塗り始めた。
蓮は、ひんやりとした感触に戸惑いながら、美咲の真剣な横顔を眺めていた。
美咲は時折、じっと蓮の顔を見つめ、眉や目の形を丁寧に整えていく。
その真剣な眼差しは、蓮が普段知っている美咲とは少し違って見えた。
アイシャドウ、アイライン、マスカラ、リップ……。
次々と蓮の顔に色が乗せられていく。
鏡に映る自分の顔は、みるみるうちに別人のようになっていく。
「はい、完成! 目、開けてみて!」
美咲の声に促され、蓮はゆっくりと瞼を開けた。
鏡の中に映っていたのは、紛れもなく「自分」なのに、まるで知らない女の子が立っているかのようだった。
少し赤みを帯びた大きな瞳に、すっと通った鼻筋、そしてぷるんとした唇。
普段の自信なさげな表情は消え、そこにいるのは、どこか神秘的で、可憐な少女だった。
「……誰、これ?」
蓮は、思わずそう呟いた。声が震えていた。
「すごい! 想像以上だわ! 蓮くん、本当に可愛い!」
美咲は興奮した様子で蓮の周りをぐるぐると回り、スマホで写真を撮り始めた。
蓮は、美咲の言葉が信じられなかった。
いつもは軽んじられ、見向きもされない自分なのに、この鏡の中の自分は、美咲から「可愛い」と称賛されている。
蓮は鏡に映る自分を、食い入るように見つめた。
そこには、いつもの気弱な自分はいない。
代わりに、少しだけ微笑んで、自信に満ちた「もう一人の自分」がいた。
心が、ゆっくりと温かくなっていく。
「これ、俺……なのか?」
「そうだよ。ほら、蓮くん。すごく似合ってる。なんで今まで隠してたの? もったいない!」
美咲の言葉は、蓮の心の奥底に眠っていた何かを揺り動かした。
それは、自分がもっと違う存在になれるかもしれない、という淡い希望だった。
「本当に……似合ってる、かな」
「もちろんだよ! もっと自信持ってよ! ねえ、せっかくだから、この格好でちょっとコンビニ行ってみようか?」
美咲の提案に、蓮は一瞬、息をのんだ。
外に出る? この格好で?
「いや、それは無理だよ! 誰かに見られたらどうするの……」
「大丈夫! 夜だし、誰も気づかないって。それに、蓮くんはすごく自然だよ。絶対にバレないから!」
美咲は蓮の手を強く握り、励ますように微笑んだ。
蓮の心は揺れ動いていた。
不安と、ほんの少しの好奇心。
美咲の言うように、このもう一人の自分は、外の世界で通用するのだろうか。
そして、もし通用したとしたら、自分の人生は変わるのだろうか。
蓮は、鏡に映る自分をもう一度見つめた。
そして、小さく、しかし決意を込めて頷いた。
「……わかった。ちょっとだけ、行ってみようかな」
その言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。
蓮の人生の、新しい扉が開かれようとしていた。
夜の帳が降りた街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
コンビニへ向かう道中、蓮は美咲の隣を歩きながら、胸が張り裂けそうなほどの緊張を感じていた。
道行く人が、自分をじっと見ているような気がして、蓮は俯きがちになった。
「大丈夫だよ、蓮くん。誰も見てないから」
美咲がそっと耳元で囁く。
その声に、蓮は顔を上げ、周りを見渡した。
確かに、誰も蓮のことなど気にも留めていないようだった。
蓮は、少しだけ安堵の息を漏らした。

女装して歩くときは、夜の方が見られないように感じますが
昼間に歩いても案外誰も見てません。
ゴスロリとか普通に目立つ格好だけでもなければ。。。
帽子かぶって、今時期なら日傘があれば十分。
制服とかで歩くと、近隣の学校とかか苦情ありそうなので
あくまで外出は普通の服の方が良いと思うよ。
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