
その時、肩を軽く叩かれた。
振り返ると、そこには玲奈が立っていた。
彼女はいつも通りの、物静かな微笑みを浮かべている。
「佐伯くん、少しお話ししたいことがあるのですが」
玲奈はそう言って、人気のない旧校舎の方へと視線を向けた。
直樹は一瞬、警戒した。
こんな風に二人きりで話すのは初めてだ。
だが、彼女の穏やかな表情に、直樹は「どうせたいしたことじゃないだろう」と高を括った。
そして、何より、彼女に借りを作ったまま放っておくのが嫌だった。
ここで話をつけ、再び自分が優位に立つのだ。そう、彼は考えていた。
「ああ、いいぜ。で、何だよ?」
直樹は腕を組み、不遜な態度で答えた。
玲奈は何も言わず、ただ微笑んだ。
その微笑みは、彼の知らない、冷酷な支配欲に満ちたものだった。
旧校舎の廊下は、生徒の喧騒から離れ、ひっそりと静まり返っていた。
二人は使われていない美術室へと入った。
埃っぽい空気と、窓から差し込む夕日の光が、部屋全体に沈鬱な影を落としている。
「で、話って何だよ?」
直樹が再び尋ねた。
玲奈はゆっくりと、机の上に置いてあった白い布を剥がした。
そこにあったのは、見慣れない制服一式だった。
だが、それは直樹が着ている男子のものではない。
清楚なベージュのブレザーに、チェック柄のスカート。
白いブラウスと、真紅のリボン。
それは、直樹が通う高校の女子制服だった。
「これ……」
直樹は言葉を失った。
玲奈は微笑んだまま、その制服を指し示した。
「あなたに、似合うと思って」
彼女の言葉は、まるで悪魔の囁きのように、静かに、そして確信に満ちていた。
その瞬間、直樹は自分がとんでもない罠に足を踏み入れてしまったことを悟った。
直樹は、玲奈の言葉の意味を理解しようと、頭をフル回転させた。
「は? 何言ってんだ、お前。俺は男だぞ」
動揺を悟られまいと、強気に言い放つ。
だが、声はわずかに震えていた。
「ええ、知っていますよ。でも、似合うと思うんです」
玲奈は机の上の制服を、まるで宝物でも扱うかのように優しく撫でた。
その指先が、スカートのプリーツをなぞる。
「……冗談はやめろ。どういうつもりだ?」
「冗談なんかじゃありません」
玲奈の口調は、ひどく真剣だった。
彼女の瞳は、まっすぐに直樹を見つめている。
その目には、いつもの穏やかさはなく、獲物を前にした捕食者のような、鋭い光が宿っていた。
「さっき、あなたは私を侮辱しましたね。あなたは、常に自分の立場が脅かされるのを恐れている。だから、誰よりも上に立とうと必死だ。私には、それがよく分かります」
玲奈の言葉は、直樹の心の中をまるで覗き見ているようだった。
彼は何も言い返せない。
彼の虚栄心は、彼女に全て見透かされていたのだ。
「……それが、何だって言うんだ」
「あなたの弱さ、それは虚栄心です。常に誰かに認められ、称賛されなければ、あなたは自分を保てない。だから、私はあなたの弱さを暴いてあげようと思ったんです」
玲奈は、机の上に置かれたリボンを手に取った。
真っ赤なリボンが、彼女の白い指に絡みつく。
「その虚栄心の核を、私の手で砕いてあげます。大丈夫、痛くなんてありません。ただ、あなたがこれまで築き上げてきた『佐伯直樹』という偶像を、私の手で作り変えるだけですから」
直樹は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この少女は、ただの変人ではない。彼女は、彼を支配しようとしている。
「ふざけるな! 俺が、お前なんかの言うことを聞くわけないだろ!」
直樹は怒鳴った。
だが、その怒りは、恐怖を隠すためのものだった。
「そうですか? では、私が持っているあなたの秘密を、クラス中に広めても構いませんか?」
玲奈は、スマートフォンを取り出した。
直樹は眉をひそめた。
「秘密? 俺に秘密なんてないぞ」
「あら、本当に? では、あなたが部活の会計からこっそりお金を抜き取っていた話、クラスの皆に聞かせてあげましょうか」
「……っ!」
直樹は凍り付いた。
それは、ごく最近、彼が軽い気持ちでしてしまったことだった。
すぐに返しておけばバレないだろうと高を括っていた、まさしく彼の弱さを象徴する行為。
それを、この少女はなぜ知っている?
「それに、あなたが教師のパソコンに忍び込んで、試験の答えを盗み見していた話。これも、面白いでしょうね」
玲奈は、まるで子供に絵本を読み聞かせるように、淡々と告げた。
直樹の顔から、血の気が引いていく。
その二つの事実は、彼にとって致命的な弱点だった。
それが広まれば、彼の築き上げてきた全てが崩壊する。
信頼も、名声も、何もかも。
「……お前、誰に聞いたんだ?」
「誰に聞いたかは、どうでもいいことです。重要なのは、私がこの事実を握っている、ということだけ」
玲奈はスマートフォンを直樹に向かって見せつけた。
そこには、直樹が部室で会計簿をいじっている写真と、職員室の窓からこっそり中を覗いている写真が、確かに保存されていた。
「これらは、私の『道具』です。あなたが言うことを聞かない場合、私はこの道具を使って、あなたの全てを破壊します」
玲奈は、まるで悪魔と契約を結ぶかのように、静かに、そして冷徹に言い放った。
直樹は、彼女の言葉と、その瞳の奥に潜む狂気に、完全に身動きが取れなくなった。
「さあ、佐伯くん。あなたは、どちらを選びますか? 私の『お願い』を聞き入れるか、それとも、あなたの全てを失うか」
玲奈は、机の上の女子制服を指差した。
その制服は、まるで彼を嘲笑うかのように、静かにそこにあった。
直樹は震えていた。
怒り、恐怖、そして何よりも、屈辱に。
彼は、自分がどれほど傲慢で、どれほど脆かったのかを、初めて突きつけられた。
目の前の少女は、彼の弱さを、その虚栄心の核を、的確に捉えていた。
「さあ、どうぞ。これに着替えてください」
玲奈の声が、冷たい命令となって響く。
直樹は、抵抗する気力さえ失いかけていた。
彼は、この密室の中で、完全に彼女の掌の上に乗せられていた。
(嘘だろ……。こんな、こんなことが……)
彼は、自分がこれまで積み重ねてきた「佐伯直樹」という存在が、たった一人の少女によって、今まさに崩壊させられようとしているのを感じた。
その恐怖は、彼の全身を支配し、彼の喉を締めつけた。
玲奈は、無言で彼を見つめている。彼女の微笑みは、もはや優しさなどではなく、純粋な支配欲の表れだった。
直樹は、震える手で、女子制服のブレザーに手を伸ばした。
その瞬間、彼の誇りは、音を立てて砕け散った。
直樹は、ブレザーの滑らかな生地に触れた瞬間、吐き気を覚えた。
信じられない、信じたくない。
だが、目の前には玲奈がいて、その手には彼の人生を破壊する「証拠」が握られている。
逃げることも、抵抗することも許されない。
「早く着替えてください。時間は限られていますから」
玲奈の声は、一切の感情を含んでいなかった。
ただの作業指示のように、冷たく響く。
「……なんで、俺がこんなことしなきゃいけないんだ」
直樹は絞り出すような声で言った。
「私が、あなたに弱さを教えたいからです。あなたは、常に強者として振る舞い、他者を踏みつけにしてきた。でも、本当に強い人間は、他人の上に立つことなんて考えません。自分の弱さを知っているから、他人に優しくなれる。私は、あなたを『本当の強さ』を持つ人間にしてあげようとしているんです」
玲奈の言葉は、まるで彼の心を弄ぶかのように聞こえた。
彼女の口から出る言葉は、穏やかでありながら、その裏には彼を徹底的に支配しようという明確な意志が感じられた。
「……お前、狂ってるぞ」
「そうかもしれませんね。でも、狂っているのは私だけじゃない。あなたの虚勢も、この学校の秩序も、何もかもが狂っている。私は、それをただ、修正したいだけ」
直樹は、言葉を失った。
この少女は、全く理屈が通じない。
そして、その狂気と理性が入り混じった言葉は、彼の心を深く突き刺した。
「さあ、早く」
玲奈は、机の上に広げられた女子制服を再び指し示した。
直樹は、震える手でブレザーのボタンを外し始めた。
自分のワイシャツを脱ぎ、そして、女子用の白いブラウスを手に取った。
薄い生地が、彼の指先でかさりと音を立てる。
その音さえも、彼の屈辱を嘲笑しているように感じられた。
着替えが進むにつれて、直樹の心は絶望に沈んでいく。
ブラウスの袖を通し、ネクタイの代わりにリボンを結び、そして、スカートに足を通す。
腰回りが緩いことに気づき、彼は絶望的な気分になった。
「ちょうどいいサイズで良かったですね」
玲奈は、まるで彼のために服を選んだファッションアドバイザーのように、楽しげに言った。
直樹は、スカートを穿いた自分の姿を直視できなかった。
彼は今、紛れもない、女子生徒の制服を身につけている。
彼の強さの象徴であった男子制服は、床に無造作に放り出されていた。
「次は、髪ですね」
玲奈は、机の引き出しからカツラを取り出した。
肩にかかるくらいの、茶色いストレートのロングヘア。
「これ、被れっていうのか……」
直樹は、声にならない悲鳴を上げた。
「ええ。より完璧な『佐伯さん』の姿を見たいですから」
直樹は、抵抗する気力も失い、そのカツラを頭に被った。
額に前髪が垂れ、サイドの髪が彼の頬をくすぐる。
彼は、自分の髪を乱暴にかきむしりたくなったが、その手は動かなかった。
玲奈は、直樹の屈服を確認すると、ゆっくりとスマートフォンを構えた。
「これから、あなたを撮影します」
「やめろ!」
直樹は反射的に叫んだ。
この姿が、写真として残る。
そして、玲奈の手にその写真が渡る。
それは、永遠の支配を意味する。
「やめるわけにはいきません。これは、あなたの『弱さ』を証明するための記録です。そして、あなたが今後、私に逆らわないための『証拠』」
玲奈の言葉は、まるで彼の胸に氷を突き刺すように冷たかった。
彼女のレンズが、直樹の絶望に満ちた表情を捉える。
「さあ、もっと笑って。いつもの、皆に見せるような、素敵な笑顔を見せてください」
直樹は、唇を歪めた。
笑顔など、作れるわけがない。
その時、玲奈の表情がわずかに険しくなった。
「いいですか、佐伯くん。この写真が、あなたの人生を左右する。あなたが笑えば、私はこの写真を、あなたの弱さを知っている私だけのものとして、大切に保管します。でも、あなたが不機嫌な顔をすれば……私は、この写真を、この学校の生徒全員に、見せてあげる」
玲奈は、甘い声でそう囁いた。
その声には、一切の慈悲はなかった。
直樹は、彼女の言葉の裏に隠された、底知れない悪意を感じた。
彼は、歯を食いしばり、必死に口角を上げた。
だが、その顔は、泣き出しそうなほどに歪んでいた。
カシャ、カシャ、カシャ。
シャッター音が、静かな美術室に響く。
それは、直樹のプライドが、一つずつ粉々に砕け散っていく音だった。

強気な男を貶めるのってゾクゾクします。
私もやる側に回りたい。
自分で女装するときは、もうとっくに羞恥心ないし。
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