六月の湿った風が、大学の講義棟の廊下を抜けていく。
二十一歳の松本裕也にとって、世界はまだ、自分の思い通りに動く巨大な遊具のようなものだった。
階段を二段飛ばしで駆け上がっても息一つ切れない心肺。
どれだけ夜更かしをしても、翌朝には鏡の中に、張りのある肌と輝く瞳を持った自分がいる。
「なあ裕也、今日こそ行こうぜ。マジで度肝抜かれるから」
隣を歩く佐藤が、スマホの画面を突きつけてくる。
画面には、フリルとレースに彩られた、いかにも秋葉原らしいメイド喫茶の広告が躍っていた。
「メイド喫茶? 柄じゃないだろ、俺たち」
「いや、ここ『エトワール』はちょっと特殊なんだよ。コンセプトが『永遠の奉仕』。とにかく一度、自分の目で見てみろって」
佐藤の強引な誘いに、裕也は肩をすくめた。
自由すぎる放課後の、ほんの暇つぶしのつもりだった。
秋葉原のメインストリートから一本裏に入り、雑居ビルの地下へと続く階段を降りる。
重い扉を開けた瞬間、冷房の効いた空気と共に、甘ったるいバニラの香りが鼻を突いた。
「お帰りなさいませ、ご主人様!」
一斉に響く若い女たちの声。
ピンク色の照明。
アニメのキャラクターのような、過剰に装飾された制服。
裕也は少し気恥ずかしくなり、俯き加減に席についた。
だが、その「違和感」はすぐにやってきた。
給仕をしているメイドたちのなかに、一人だけ、周囲の空気と明らかに位相の異なる存在が混じっていた。
「失礼いたします。お冷とおしぼりでございます」
その声は、他のメイドたちのような高音の「作り声」ではなかった。
低く、落ち着いていて、どこか湿り気を帯びた、大人の女性の声。
裕也が顔を上げると、そこにいたのは、メイド服を纏った年配の女性だった。
裕也は、一瞬呼吸を忘れた。
彼女――真理子の姿は、この空間において異様だった。
肌は白く丁寧に塗り固められているが、首筋には隠しきれない年輪のようなシワが深く刻まれている。
長い黒髪のウィッグからは、時折、本人のものらしき白い毛が覗いている。
何よりも、その瞳だ。
他の若いメイドたちが客の財布を狙うような、あるいは事務的な笑顔を振りまいているのに対し、彼女の瞳は、もっと深くて暗い、底知れない「渇望」を湛えていた。
「おい、見たかよ」
真理子が去った後、佐藤が声を潜めてニヤついた。
「あれが名物の真理子さん。通称『聖母』。あんな歳になってもメイド服着てさ、痛々しいだろ? でも、あのミスマッチが逆に受けてるらしいんだよ。この店の『永遠』ってコンセプトの体現なんだと」
「……痛々しいなんて、そんなレベルじゃない」
裕也は、胸の奥をざらつかせた。
真理子がこちらを振り返り、目が合う。
彼女は、優雅に、そしてゆっくりと頭を下げた。
その動作一つをとっても、若い娘たちの軽やかな身のこなしとは対極にある。
膝を曲げ、腰を落とすたびに、布地の下で関節が微かに悲鳴を上げているような、そんな生々しい「肉体の質量」を感じさせた。
彼女がオムライスにケチャップでハートを描く時、裕也はその手元を凝視してしまった。
細く、青白い血管が浮き出た手。
指先は少し震えている。
「美味しくなあれ、萌え、萌え……」
その呪文が、彼女の唇から漏れるたび、裕也は得体の知れない恐怖に襲われた。
彼女が口にする「萌え」は、愛嬌ではなく、他人の命を吸い取ろうとする呪詛のように聞こえたからだ。
「裕也、顔色が悪いぞ。どうした?」
佐藤の声が遠くに聞こえる。
裕也は、自分の若々しい、熱を持った手のひらを見つめた。
もし、この瑞々しい皮膚が、一瞬にしてあのように枯れ果てたら。
もし、この弾力のある肉体が、重力に逆らえない泥のような塊に変わったら。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走る。
真理子は店内の隅で、じっと動かずに立っていた。
その姿は、まるで数十年後の自分を映し出す、歪んだ鏡のようだった。
閉店のベルが鳴り、客たちが一人、また一人と去っていく。
佐藤も先に店を出た。
裕也が立ち上がり、出口へ向かおうとしたその時、背後からひんやりとした感触が走った。
「裕也様」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
なぜ、彼女が自分の名前を知っているのか。
振り返ると、そこには真理子が立っていた。
蛍光灯の真下で見る彼女の顔は、先ほどよりもさらに深く、暗い影を落としている。
「忘れ物ですよ」
彼女の手には、裕也が席に置いていたはずのキーホルダーが握られていた。
受け取ろうと手を伸ばした瞬間、彼女の指先が、裕也の肌に触れた。
氷のように冷たく、それでいて、吸盤のように吸い付く、奇妙な質感。
彼女はそのまま裕也の手首を掴み、誰もいない店の奥――バックルームのカーテンへと、力を込めて引き寄せた。
「少し、お話があるの。……あなたにしか、頼めないことなの」
その瞳に宿る「渇望」が、今はっきりと裕也を捕らえていた。
逃げなければならない。
本能がそう告げていたが、若さという無敵の鎧を着ていたはずの裕也の足は、蛇に睨まれた蛙のように、一歩も動くことができなかった。
バックルームの空気は、ホールとは一変して重く、淀んでいた。
壁一面に古びた革表紙の書物が並び、乾燥したハーブと、獣の脂が焦げたような、嗅ぎ慣れない匂いが充満している。
「ねえ、裕也君。その若さは、あなたにとってそれほど価値のあるもの?」
真理子の声が、鼓膜を這うように響く。
彼女は机から一冊の小さな本を取り出した。
手垢で黒ずんだ表紙には、銀色の糸で不気味な紋様が刺繍されている。
「私はね、もう限界なの。この身体は、魔法という名の重い鎖。少しの間だけでいい……あなたの瑞々しい命を、私に貸してくれないかしら」
裕也は断ろうとした。
だが、真理子の瞳が不自然な光を帯びて回転し始めると、思考が泥の中に沈んでいくように重くなった。
「……どう、すればいいんですか」
自分の声ではないような掠れた声が漏れる。
真理子は満足げに微笑み、裕也の熱い両手を、冷え切った自分の両手で包み込んだ。
「手をつないで。目をつぶって。……ただ、受け入れるだけでいいのよ」
真理子の唇が動き、異質な言語を紡ぎ出す。
次の瞬間、裕也の視界が強烈な白い閃光に塗りつぶされた。
内臓が喉元までせり上がり、全身の細胞が一度バラバラに解体され、無理やり別の型に押し込められるような激痛と吐き気が襲う。
「あ……、が、っ!」
自分の悲鳴が、妙に高く、くぐもって聞こえた。
やがて光が収まり、裕也は床に膝をついた。
……おかしい。
膝が、硬い。
コンクリートを叩いたような鈍い痛みが、骨の芯まで響く。
いつもならすぐに立ち上がれるはずなのに、身体が鉛のように重い。
恐る恐る目を開けると、視界の隅に、フリルをあしらったピンクのスカートが見えた。
「っ、なんだ、これ……」
自分の手を見る。
そこにあったのは、節くれ立ち、薄茶色のシミが点在する、見知らぬ女の手だった。
裕也はパニックになりながら、自分の身体――真理子の身体を確認し始めた。
メイド服のポリエステル生地が、肌に触れる。
いや、違う。肌が生地を「押し返さない」のだ。
かつての自分の筋肉質な身体なら、服の下に生命の躍動があった。
だが今は、重力に従って垂れ下がった胸の重み、引き締まりを失った腹部の肉が、コルセットのような制服に無残に締め付けられている不快感だけがある。
手を喉元に当てると、そこには喉仏がない。代わりに、たるんだ首筋の皮が指にまとわりついた。
「ああ……。素晴らしい。なんて軽いの。なんて温かいの……!」
目の前から、聞き覚えのある声がした。
そこには、「松本裕也」が立っていた。
真理子は裕也の身体を隅々まで愛撫するように触りまくっていた。
胸板を叩き、腹筋をなぞり、太ももの筋肉の硬さを確かめては、恍惚とした吐息を漏らしている。
「見て、裕也君。あなたの指はこんなに長くて、力強い。脈動が……ドクドクと、若さそのものが叫んでいるわ」
真理子(裕也の身体)が、自分の――かつての裕也の――股間に手をやり、若々しい生命力を確認して、下卑た笑い声を上げた。
裕也は恐怖で震えた。
「戻して……。早く、戻してください!」
叫ぼうとした。しかし、口から出たのは、女性にしては野太く、だが湿った艶を帯びた「真理子の声」だった。
ハリのない声帯が震え、言葉が濁る。
自分の意志とは裏腹に、熟した身体が勝手に溜息を漏らす。
「やだ……やめてくれ、こんなの……っ!」
裕也は立ち上がろうとしたが、腰に電気が走るような鋭い痛みが走り、再び崩れ落ちた。
関節が錆びついている。
視界も隅の方がぼやけ、焦点がうまく合わない。
真理子が、裕也の姿のまま、ゆっくりと近づいてきた。
彼女は、かつての自分が見せたことのないような、邪悪で冷徹な表情を浮かべていた。
「少し大変だろうけど、大丈夫。その身体も、慣れれば心地よいものよ。死に近い場所から世界を見るのは、とても勉強になるわ」
真理子の手が、今の裕也(真理子の顔)の頬に触れた。
若々しく、体温の高い、大きな手。
「ありがとう。この身体は、私が有効に使ってあげる。……永遠にね」
真理子の指先から、再び不気味な熱が流れ込んでくる。
裕也の意識は、底なしの沼に引きずり込まれるように遠のいていった。
「待っ……て……」
最後に見たのは、自分の顔をした真理子が、軽やかにステップを踏んで、バックルームから出ていく後ろ姿だった。

こちらも、さらっと書いたお話を少し濃厚にリメイク。
書きたいことを盛って、文章量も結構増えてます。
でも、まだ大体1/3くらい。
なので完成版は更に増えます。
読み応えは大きくなると思いますが
長くなって離脱されないかが心配です。
リメイク前はこちら↓

前より良くなってるかな?
次回:2/3 21:00更新


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