
大学の講義が終わり、夕暮れの街をぼんやりと歩いていた。
僕の名前は瀬川一真、20歳。
特にこれといった取り柄もない、ごく普通の大学生だ。
この夏から何か新しいことを始めたいと思い、アルバイトを探していた。
しかし、なかなかこれだという仕事が見つからない。
そんな時、ふと路地裏に見慣れないカフェを見つけた。
ガラス張りの窓から漏れる温かい光と、店内に漂う香ばしいコーヒーの匂い。
扉にかけられた「アルバイト募集」の貼り紙が、僕の足を止めた。
少し勇気を出して扉を開けると、そこは外の喧騒が嘘のように静かで、落ち着いた空間が広がっていた。
カウンターの奥から、柔らかな笑顔を浮かべた男性が顔を出す。
店の店長らしかった。
「いらっしゃい。どうかしましたか?」
僕がバイト募集を見て来たことを告げると、店長は少し驚いたような顔をした後、楽しそうに笑った。
「ちょうど良かった。ぜひ、面接させてください」
トントン拍子で面接が始まった。
店長は僕の履歴書を眺めながら、「瀬川くんは、真面目そうだね。うちの店は、ちょっと変わったところがあって…」と前置きした。
そして、おもむろに「女性スタッフの制服を着られる人材を探しているんだけど、どうかな?」と言った。
僕は一瞬、耳を疑った。
え、冗談? まさか。僕は男だ。
しかし、店長は真剣な顔をしている。
僕は混乱しながらも、「冗談ですよね?」と尋ねた。
店長はにっこり笑って、「まあ、冗談半分、本気半分ってところかな。でも、君ならきっと似合うと思うよ」と答えた。
その言葉の裏に深い意味はないだろうと、僕は深く考えずに「はい、大丈夫です」と答えてしまった。
まさか、それが僕の日常を根底から覆すことになるとは、その時の僕は知る由もなかった。
翌日、店長から連絡があり、カフェに行くことになった。
意気揚々と店に行くと、店長は僕を奥のバックヤードに案内した。
そして、一着の制服を差し出した。
それは、フリル付きの白いブラウスと、膝丈のネイビーのスカートだった。
「はい、これが君の制服。さっそく着てみてくれるかな」
僕は再び戸惑った。本当に着るのか? 冗談じゃなかったのか?
「あの、これは…」
「大丈夫。ウィッグとメイクで、きっと誰にもバレないから」
店長はそう言って、僕の顔に手を伸ばし、僕の眉を少し整え、ファンデーションを軽く塗った。
まるで魔法をかけるように、僕の顔はみるみるうちに「女の子」になっていく。
次に、腰まである黒髪のウィッグを被せられた。
鏡の中の自分は、見知らぬ「女の子」だった。
大きな瞳、細い顎のライン、華奢な肩。
そこに映っているのは、間違いなく僕の顔立ちなのに、僕とは全く違う人物に見える。
スカートに足を通し、ブラウスの袖を通す。
フリルが肌に触れるたびに、不思議なくすぐったさを感じた。
「完璧だ。今日から君の名前は『カナ』ね」
店長は満足げに微笑んだ。
鏡の中の「カナ」は、少し困惑したような、でもどこか期待に満ちた表情を浮かべている。
僕がこんなにも「女の子」になることに抵抗がないどころか、少しドキドキしていることに気づき、自分自身に驚いた。
これは、一体どういう感情なんだろうか。
僕は戸惑いながらも、新しい自分、カナとして、カフェ「ノアール」の扉を開いた。
カフェ「ノアール」でのバイトが始まった。
女装姿の「カナ」として働く日々は、最初はすべてがぎこちなかった。
注文を取り間違えたり、お盆を揺らしてしまいそうになったり。
それでも、お客さんたちは僕を優しく見守ってくれた。
店長は僕の失敗を笑い飛ばしながら、丁寧に接客のコツを教えてくれた。
「カナ、その笑顔がいいね」
店長の言葉に、僕は少し照れながらも、鏡の中の「カナ」が微笑んでいるのを見て、不思議と嬉しくなった。
カフェの常連客は皆、カナのことを気に入ってくれた。
中でも、いつもカウンター席に座っている、クールな表情の男性がいた。
黒川玲央、25歳。大手企業に勤めているらしく、いつもスーツ姿で現れる。
最初は無口で、ほとんど僕と目を合わせることもなかった。
しかし、ある日、僕が彼の目の前にコーヒーを置くと、彼はふいに僕の顔を見て言った。
「君は、笑うと雰囲気が変わるね」
それ以来、玲央さんは僕に話しかけてくれるようになった。
最初は天気の話や、おすすめのメニューの話。
それが少しずつ、彼の仕事のことや、僕の大学生活の話へと広がっていった。
玲央さんは、普段はクールで隙のない印象なのに、話すととても穏やかで、時折見せる優しい笑顔に、僕はドキッとした。
「カナさんと話していると、仕事の疲れが吹き飛ぶよ」
そう言われるたびに、僕は胸の奥が温かくなるのを感じた。
僕はただのバイトとして「カナ」を演じているだけなのに、玲央さんは僕を「カナ」として見て、好意を寄せてくれている。
そのことが、僕を嬉しくさせると同時に、心の中に小さな罪悪感を芽生えさせた。
バイトが終わった夜、僕は一人暮らしの部屋で、今日の出来事を思い出していた。
玲央さんとの会話、彼が見せてくれた優しい笑顔、そして「カナ」として扱われることへの喜び。
そのすべてが、僕の心を揺さぶった。
僕はベッドに横たわり、天井を見つめる。
今日の自分は、本当に僕だったのか? それとも、ただの「カナ」という名の嘘だったのか?
玲央さんは、僕が男だということを知ったら、どんな顔をするだろうか。
きっと、軽蔑するだろう。
そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。
でも、同時に、僕は「カナ」として過ごす時間を、楽しいと感じていた。
大学の友人といる時とは違う、開放的な自分。
周りから向けられる優しさに、僕は満たされていた。
自分の中に芽生える「女の子として扱われることへの嬉しさ」と、「このままでいいのか」という葛藤が、僕の心を激しく揺さぶっていた。
玲央さんと話す時間が増え、僕の心は日に日に「カナ」に傾いていった。
そんなある日、玲央さんが突然、僕に声をかけてきた。
「カナさん、今度の日曜、一緒にどこか出かけませんか?」
心臓が跳ね上がった。
どうしよう、どうしよう。
頭の中が真っ白になる。
これは、デートの誘いだ。
僕は男なのに、玲央さんは僕を女の子だと思って…
「え、あ…」
言葉に詰まる僕に、玲央さんは少し心配そうな顔をした。
「もし迷惑だったら、ごめん。気にしないで」
「ち、違うんです! 迷惑なんかじゃ…!」
僕の口から出た言葉は、自分でも信じられないほど、僕の素直な気持ちだった。
「その…、はい、行きたいです」
「本当? よかった」
玲央さんは心底嬉しそうな顔で笑った。
僕はその笑顔に、再び心臓を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
家に帰ってからも、僕は興奮が冷めなかった。
玲央さんとのデート。
一体、どんな服を着ていけばいいんだろう。
髪は? メイクは? 僕は初めて、自分の外見を誰かのために気にし始めた。
鏡の前で、僕はウィッグを被り、メイク道具を手に取った。
いつも店長にやってもらっていたメイクを、自分でやってみる。
ファンデーションを塗り、アイラインを引く。
不器用な手つきで悪戦苦闘しながらも、少しずつ「カナ」に近づいていく自分に、僕は高揚感を覚えた。
当日、朝から降り続く雨が、僕の緊張感をさらに煽っていた。
待ち合わせの駅に着くと、玲央さんはすでに待っていた。
ネイビーのコートを羽織り、僕を見つけると、少し照れたように微笑んだ。
「雨だけど、大丈夫だった?」
「はい、大丈夫です」
僕たちは静かな街を、傘をさして歩いた。
玲央さんは、僕のために歩くペースを合わせてくれる。
その優しさが、僕の心を温かく満たしていく。
カフェに入り、向かい合って座った。
玲央さんは、少し神妙な面持ちで話し始めた。
「実は、前に一度、ひどい失恋をしたことがあって…」
彼は、過去に深く愛した女性に裏切られた話を、僕に聞かせてくれた。
その時の彼の表情は、普段のクールな彼とは全く違う、傷つきやすい少年のようだった。
「それから、僕は誰かと深く関わるのが怖くなっちゃって。女性に話しかけることも、ほとんどなかった」
玲央さんの言葉に、僕は胸が締め付けられる思いだった。
この人は、こんなにも繊細な心を持っていたんだ。
「でも、君には不思議と、自然に笑えるんだ。君と話していると、心が軽くなる」
玲央さんはそう言って、僕のテーブルの上の手に、そっと自分の手を重ねた。
彼の温かい手に触れた瞬間、僕の心臓は激しく鼓動した。
「君と出会って、また誰かを好きになることが、怖くなくなった。ありがとう、カナさん」
彼のまっすぐな瞳に、僕は何も言えなかった。
僕はただ、嘘をついているだけの人間なのに、玲央さんは僕をこんなにも大切に思ってくれている。
この温かさと、嘘をついている罪悪感に、僕はどうしようもなく揺れ動いていた。

大体、女装って声でばれるとは思いますが
中には声も変えてしまう強者もいたりします。
最近の人たちは下手な女性よりきれいな人もいますからねぇ。
声も変えられたら分からないかも?
私はそういう芸当は無理ですがw
デートから数日後
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