
その人は、いつも静かに笑っていた。
「おはよう、悠人くん」
風鈴の音のような声。
白いブラウスに青いスカートをふわりと揺らして、彼女──彩花さんは俺に手を振った。
高校二年の夏、俺は彼女の笑顔に恋をした。
彩花さんは、俺の家の斜め向かいに住む大学生。
二つ年上で、和菓子屋の娘。
ゆっくりした口調と優しい瞳。
まるで現代から取り残されたような、ゆるやかな時間を纏っている。
夏の夕方になると、彼女は縁側に座って本を読んでいた。
その姿が、俺にはまるで物語の中のヒロインのように思えて、何度も視線を送ってしまっていた。
「ねえ、悠人くん。君、女の子の服とか興味ある?」
ある日、そんなふうに言われて、心臓が跳ねた。
「え、いや、その……なんで、そんなことを?」
「ふふ。なんとなく。君、見てるとそういう繊細さを感じるから」
からかっているわけじゃない。彼女は真剣だった。
その日から、俺の心はずっと、彼女と何かが起きる未来を夢見ていた。
「悠人くんって、もしも女の子になれるとしたら……なってみたいと思う?」
ある夕暮れ。いつもの縁側で、彩花さんがぽつりと呟いた。
「え……?」
俺の心臓がドクンと跳ねた。
「ふふ、ごめん。変なこと聞いちゃったね」
そう言って笑う彼女の表情は、いつもより少しだけ大人びていた。
でも、その瞳には確かな本気があった。冗談ではないと悟った。
「それって……本当に、なれるの?」
「うん。私の家には、ちょっとだけ変わった力が伝わってるの。使う人を選ぶけど、君ならできると思う」
数日後、彼女の部屋に招かれた俺は、畳の上に広げられた巻物と香炉を前に固まっていた。
「これが儀式に使う道具。正しい手順で行えば、私と君の身体が入れ替わるの」
「なんで、そんなこと……俺なんかと……?」
「君が、自分の性別に少しだけ違和感を抱えてるように見えたから」
図星だった。
どこか自分の男らしさに自信が持てず、他人の女性らしさに惹かれていた俺は、彼女の言葉に深く頷いていた。
「……やってみたい」
その瞬間、部屋に漂う香の匂いが一層強くなった気がした。
目を開けた瞬間、世界が変わっていた。
見慣れた部屋のはずなのに、視線の高さが違う。
胸のあたりが重くて、脚が細く、手が小さい。
指先に塗られた淡いピンクのネイルがやけに鮮やかに見えた。
「うそ……これ……俺?」
鏡の中には、彩花さんがいた。
完璧な彼女の姿。
白いブラウス、すらりとした腕、少し笑うだけで柔らかくなる唇。
スカートがふわりと揺れ、細い足首がサンダルからのぞく。
全てが現実とは思えなかった。
「声も……高い……柔らかい……」
何度も声を出し、自分の顔に触れ、鏡を見つめた。
身体を少し動かすだけで、胸が揺れ、髪がさらりと肩を撫でる。
日常の何気ない動作の中に、女性であるという感覚が染み込んでいた。
「これは……夢じゃない……!」
そして、その夜。
彩花さんの姿のまま、自分の部屋でこっそり鏡の前に立ち、服を脱いでみた。
そこには、完璧な彼女の身体があった。
羞恥と興奮。
禁断の感情が、胸の奥で静かに燃え上がっていった。
翌朝、儀式は終わり、俺は再び自分の体に戻っていた。
だが、その夢のような一夜の記憶は、身体の奥に焼き付いていた。
「……戻ったんだな……」
戻った自分の手は大きく、声は低く、服の感触も重い。
すべてが前と同じなのに、もう戻れない気がしていた。
「どうだった?」と彩花さん。
「すごかった……いや、正直、驚いたよ。全部が、違ってて……柔らかくて、軽くて……」
彼女は微笑み、俺の頭をそっと撫でた。
「君は、ちゃんと私になれてたよ」
その言葉が嬉しくて、でも、同時に胸がきゅっと締め付けられた。
(もう一度……もう一度だけでいいから、あの身体で生きてみたい)
自分が女性になったあの時間を、忘れられなくなっていた。
「ねえ、彩花さん。もう一度……入れ替わりたいんだ」
数日後、俺はそう切り出した。
「……悠人くん、本気?」
「本気だ。あの時の感覚が、忘れられない。もっと……もっと知りたいんだ」
彼女はしばらく黙ったあと、優しく笑った。
「じゃあ、次は自分で儀式をしてみる? ちゃんと手順を教えるから」
俺は緊張しながらも巻物を開き、香炉を整え、彼女の指示通りに動いた。
儀式は静かに進んだ。
香の煙が立ち上り、意識がぼやけていく。
だが──次に目を覚ましたとき、そこにいたのは彩花さんではなかった。
「えっ……えええっ!?」
鏡の中には、知らない中年女性の姿が映っていた。
ほうれい線、うっすらと見える白髪、落ち着いた目元。
「嘘だろ……これって、彩花さんの……お母さん!?」
身体の重み。首のこり。膝の違和感。
見た目だけでなく、内側から違っていた。
「どうして……なんで、こんなことに……!」
混乱する俺に、彩花さんは困ったように答えた。
「ごめん……たぶん、近くにいた母と何か干渉しちゃったのかも。儀式って、ほんの少しのミスでもズレるの」
「戻れるんだよね?」
「……それが、自ら誤って儀式を行った場合、干渉は固定されちゃうの」
言葉を失った。まさか、二度と戻れない?
俺は女性にはなれた。だが、それは理想とは程遠い身体だった。
見た目も、感覚も、動きも、全てが自分の想像を超えていた。
「こんなの……俺がなりたかった女性じゃない……!」
俺は、彩花さんの母・千景として生きることになった。
和菓子屋の仕事を手伝い、近所の人と会話をし、時に家計簿をつける。
毎日が慌ただしく、ふとした瞬間に自分が誰だったか忘れそうになる。
「ねえ、彩花。あの子、元気かしら?」
そう尋ねるたびに、俺自身の声に寒気がした。
年齢の感覚は確かに辛かった。
けれど、スカートを履いて歩く時の感触や、他人から「お母さん」と呼ばれる不思議な安心感は、別の意味で心を揺さぶった。
自分はもう、元の悠人には戻れない。
でも、どこかで納得しようとしている。
「私の夏は……まだ、終わっていない」
そう呟いたとき、どこかで風鈴の音が鳴った。

憧れのお姉さんにならなってみたいですね。
そのお母さんになっちゃったら。。。
まあ、お姉さんと暮らせるので結果オーライ?
そう割り切れる人はあんまりいないでしょうね。。。
仕組まれた運命
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