最初は夢だと思ったが、現実であることを認識するのに時間はかからなかった。
田中家の朝は、いつもと同じはずだった。
午前六時。
スマートフォンのアラームが、無機質な電子音を寝室に響かせる。
高校二年生の田中美咲は、重い瞼を押し上げ、いつものように這いずるようにしてベッドから這い出した。
しかし、その瞬間に感じた違和感は、寝ぼけた頭を突き抜けるほど強烈だった。
「……っ、い、た……」
床に足をついた瞬間、膝の裏に鈍い痛みが走った。
いつもなら羽のように軽い自分の身体が、まるで鉛を詰め込まれたように重い。
それだけではない。
視界がいつもよりわずかに低く、そして何より、パジャマの袖から覗く自分の手が、明らかに「自分」のものではなかった。
白く、細く、瑞々しかったはずの指先は、どこか節くれ立ち、手の甲にはうっすらと浮き出た血管が見える。
美咲は息を呑み、洗面所へと駆け込んだ。
いや、駆け込もうとしたが、思うように足が動かない。
もどかしさに胸を騒がせながら、鏡の前に立つ。
「…………え?」
鏡の中にいたのは、美咲ではなかった。
そこには、昨夜「おやすみ」と言って別れたはずの、四十歳の母親――田中彩香が立っていた。
美咲は自分の頬に手を当てた。鏡の中の母も、同じように頬に手を当てる。目を見開き、口を戦慄かせる動作まで、完全にシンクロしている。
「嘘……なんで、お母さん……? 私、どうなっちゃったの……!?」
喉から漏れた声は、聞き慣れた自分の高い声ではなく、落ち着いた、少しハスキーな大人の女性のものだった。
急激に押し寄せてきたのは、言いようのない「恐怖」だった。
十七歳の瑞々しい肌、未来が詰まっていたはずの肉体、昨日まで当たり前だった「自分」という存在。
それが一晩にして、二十三年分もの時間を飛び越え、老いてしまった。
美咲は鏡に映る「老いた自分」を直視できず、その場にへたり込んだ。
指先が震える。このまま一生、自分は「お母さん」として生きていかなければならないのか。私の青春は、まだ始まったばかりなのに。
「……美咲? 美咲なの?」
背後から、聞き覚えのある声がした。
それは、紛れもなく美咲自身の声だった。
振り返ると、そこにはパジャマ姿の「自分」が立っていた。
ポニーテールに結んでいたはずの髪は乱れ、驚きで目を丸くしている。
しかし、その瞳に宿っている知性は、明らかに母親の彩香のものだった。
「お母、さん……?」
「美咲……どういうことなの、これ。私、鏡を見たら……」
彩香(の姿をした美咲)は、自分の手を見つめ、それから鏡の中の美咲(の姿をした彩香)を見つめた。
彩香の心の中には、強烈な戸惑いとともに、別の感情が芽生えていた。
――軽い。
ここ数年、朝起きるたびに感じていた肩の凝りも、腰の重みも、どんよりとした疲労感も、すべてが霧散していた。
深呼吸をすれば、肺の隅々まで酸素が行き渡るのがわかる。
肌を触れば、吸い付くような弾力がある。
(なんて……綺麗なの)
それは、かつての自分が失ってしまった「輝き」だった。
失って初めて気づく、若さという名の無敵の鎧。それを再び手に入れたのだという本能的な歓喜が、脳の片隅で小さく跳ねた。
しかし、その直後に襲ってきたのは、激しい罪悪感だった。
目の前で、自分の肉体を着せられた娘が、絶望に打ちひしがれて震えている。
「ごめんね、美咲。私が……私があなたの身体を、奪っちゃったみたいで……」
彩香は、娘の姿をした自分の手で、自分の姿をした娘の肩を抱こうとした。
だが、その手が触れる直前で止まる。
この瑞々しい指先は、今、この瞬間も娘から奪い取っているものなのではないか。
自分が「軽い」と感じる分だけ、娘は「重さ」を背負わされている。
自分が「若返った」と喜ぶ背後で、娘は「老い」の恐怖に泣いている。
親として、これほど残酷なことがあろうか。
「違うの、美咲。これは何かの間違いよ。すぐに戻るわ、きっと……」
彩香の声は震えていた。
喜びと罪悪感、相反する二つの感情が胸の中で渦を巻き、激しい不協和音を奏でている。
「お母さん……私、嫌だよ。こんなの嫌……。学校、どうすればいいの? 友達に、なんて……」
美咲は、四十歳の身体で声を上げて泣いた。
大人の肉体から漏れる、子供のような泣き声。
その異様な光景が、田中家の静かな朝を、取り返しのつかない非日常へと変えていった。
「落ち着いて。まずは……まずは落ち着きましょう。お父さんに気づかれる前に」
彩香は自分に言い聞かせるように言った。
しかし、階下からは夫・健一の「おーい、朝飯まだか?」というのんきな声が聞こえてくる。
二人は顔を見合わせた。
鏡の中の歪な現実を抱えたまま、彼女たちの「認識のバグ」に満ちた長い一日が、幕を開けようとしていた。

前に書いたときは、どちらも楽しむ感じにしていましたが、
今回のリメイクでは、序盤は二人の苦悩を前面に出してます。
まあ、いきなり順応できるわけがないですからねぇ。
若返った側だって、いきなり学生生活なんて言われても無理ですし
高校生が社会人出来るわけもなし。
その辺のリアルな感じを追求したい。
ところで、こんな感じのショートストーリーを
自分を主役にして書いてほしいという人っています?
プロット頂けたら、こっちで適当に補完、改変して書きますよ!
そろそろネタが枯渇気味なので。
元の話



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