すっかり忘れてましたが話の前に少し宣伝
入れ替わりもの短編集2のリメイク発売
昔の粗が気になって、全話総書き直し。
新作みたいなものなので、気が向いたら読んでみてね。
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そのバーは、地下へと続く階段の先にあった。
湿ったコンクリートの匂いと、安価な芳香剤が混ざり合った空間。
天井の隅で回る換気扇は、都会の淀んだ空気を吐き出すことさえ諦めたように、重苦しい音を立てている。
坂口悠人(さかぐち ゆうと)は、カウンターの端で琥珀色の液体を転がしていた。
「……氷が溶けるな」
独り言のように呟いた言葉は、誰に届くこともなく、ジャズの低音に掻き消された。
三十三歳。
中堅の広告代理店で、可もなく不可もない日々を繰り返している。
かつて抱いていた野心や、世界を塗り替えてやろうという青い熱情は、積み上がる書類と上司の叱責、そして何より「自分は替えのきく部品に過ぎない」という冷徹な自覚によって、すり潰されて久しかった。
仕事はこなし、食事は摂り、睡眠を貪る。
しかし、生きているという手応えだけが、砂時計の砂のように指の隙間から零れ落ちていく。
その夜、悠人の隣に座ったのは、一人の女だった。
「それ、美味しい?」 唐突な問いかけに、悠人は視線を上げた。
女の名は、美咲(みさき)と言った。
年齢は自分と同じか、少し上だろうか。
彼女が纏っている空気は、単なる色気と呼ぶにはあまりに不穏だった。
それは、熟れすぎた果実が枝から落ち、地面で潰れて発酵し始める直前の、甘ったるくも暴力的な腐敗の予感。
彼女の指先が、悠人のグラスの縁をなぞる。
赤いマニキュアが、琥珀色の液体に反射して血のように見えた。
「退屈なのね。あなたも、私も」
美咲は、悠人の瞳の奥を見透かすように微笑んだ。
その笑みには、慈しみよりも、獲物を見定めた観察者のような冷徹さが宿っている。
「場所を変えない? ここじゃ、空気もまともに吸えないもの」
悠人は迷わなかった。
それが罠であれ、行きずりの情事であれ、何でもよかった。
このまま一人で、溶けゆく氷を眺めながら自分の輪郭がぼやけていくのを待つよりは、見知らぬ女の毒に中(あた)る方がマシだと思えた。
二人は店を出て、タクシーに乗り込んだ。
街灯が流れる夜の街。隣に座る美咲から漂うのは、濃厚なサンダルウッドの香りと、それを覆い隠すような、何か動物的な「熱」だった。
彼女のマンションは、中心部から少し離れた、静かすぎる住宅街にあった。
オートロックが開く金属音、エレベーターの振動、そして鍵が回る乾いた音。
「どうぞ。狭いけれど」
彼女に促されるまま、悠人は足を踏み入れた。
室内は、女の一人暮らしにしては殺風景だった。
必要最低限の家具と、壁にかけられた抽象画。
ただ、妙に「身体」の存在を意識させる部屋だった。
脱ぎ捨てられたストッキング、ドレッサーに並ぶ数多のクリーム、鏡。
美咲が悠人の背後に回り、上着を脱がせる。
「緊張してる?」 「……まさか」
悠人が振り向こうとした瞬間、背中に冷たい感覚が走った。
美咲の手のひらが、彼の項(うなじ)から背骨にかけて、ゆっくりと滑り降りる。
その瞬間、世界が変質した。
ドアが閉まる音を合図に、部屋の空気が急激に粘り気を帯びる。
視界がグニャリと歪み、色彩が混ざり合う。
重力があらぬ方向から自分を引っ張り、内臓が攪拌(かくはん)されるような強烈な悪心が襲った。
悠人は呻き声を上げ、たまらず床に膝をついた。
「あ、う……っ」 何かが、自分の中から引き剥がされていく。
いや、自分という容れ物の中身が、強引に吸い出され、別の何かが泥のように流れ込んでくる。
視線が急激に低くなる。
自分の腕が視界に入る。
白く、細く、指先には自分のものではない赤いマニキュアが施されている。
「……あ」
漏れた声は、聞き慣れた自分の低いバリトンではない。
それは、湿り気を帯びた、絹のように滑らかな「女」の質感を持った音だった。
床に這いつくばる悠人の目の前に、一足の革靴が現れる。
それは、彼が今日一日履き古し、仕事の疲れを染み込ませたはずの、自分の靴だった。
視線をゆっくりと上げると、そこには「悠人」が立っていた。
自分自身の身体。
自分が三十三年かけて育て、慣れ親しんできたはずの肉体が、見知らぬ冷徹な意志を持って自分を見下ろしている。
「いいわね。清潔感があって」
「自分」の口から出たのは、美咲の声と、美咲の傲慢な微笑だった。
悠人は立ち上がろうとした。だが、自分の身体の制御方法が分からない。
何より、上半身に異様な「重み」を感じる。
胸板だったはずの場所。そこには、左右に揺れる、ずっしりとした脂肪の塊が二つ、重力に従ってぶら下がっていた。
それは映像で見たり、あるいは他人の身体として触れたりしてきた「記号としての巨乳」ではなかった。
薄い皮膚を内側から引き延ばし、首から肩にかけての筋肉を常に緊張させ、肺を圧迫する物理的な負荷。
「自分の身体」という感覚の崩壊。
「返せ……何をした、っ!」 必死に絞り出した叫びも、女の喉を通ると、湿った喘ぎのようにしか聞こえなかった。
美咲(悠人の身体)は、満足げに自分の新しい逞しい腕を眺め、それから床に散らばった衣類を指差した。
「静かにして。まずは、あなたの服を着てみてくれない?」
そこから始まるのは、悠人にとっての、そして美咲にとっての、残酷な「不適合」の儀式だった。
「さあ、早く。冷えるわよ」
「自分」の姿をした美咲の声が、頭上から降ってくる。
悠人は、フローリングの冷たさを膝に感じながら、呆然と床を見つめていた。
そこには、脱ぎ捨てられたばかりの自分の服が、抜け殻のように散らばっている。
悠人は震える手で、ネイビーのボクサーパンツを拾い上げた。
今朝、自分で選んで穿いたはずの日常の象徴だ。
しかし、それを引き上げようとした瞬間、指先に伝わる抵抗が、かつてのそれとは決定的に異なっていた。
「くそ……っ」
立ち上がろうとして、再びよろめいた。
重心が完全に狂っている。
背中側にあったはずの筋肉の張りが消え、代わりに胸部にある二つの大きな「重り」が、動くたびに激しく揺れ、肋骨を叩く。
ブラジャーという支えのない肉の塊は、単なる脂肪ではなく、皮膚を引きちぎらんとする物理的な負荷だった。
まず、トランクスに片足を通す。
かつての悠人の太腿には程よいゆとりがあったはずの布地だが、今は余裕がない。
女の脚は、付け根に向けて外側に膨らんでいる。
「……っ!」
腰まで引き上げると、ウエストのゴムが悲鳴を上げた。
男性の骨格を前提に作られた直線的なラインは、女の豊かなヒップを包み込むようにはできていない。
ゴムが皮膚に深く食い込み、柔らかい肉を上下に分断する。
一方で、股間部分はかつてあったはずの「モノ」がないために、布地が力なく弛み、歩くたびに太腿の内側で不快な摩擦を生んでいた。
次に、ビジネス用のスラックスに手を伸ばす。
それは、彼が社会人としての自尊心を保つための武装だった。
だが、今の彼にとって、それはただの歪な拘束具に過ぎない。
脚を通すと、意外にもするりと入った。
丈は数センチ余り、裾が床に溜まる。
しかし、腰回りで決定的な違和感に突き当たった。
ファスナーを閉じようと指をかけるが、下腹部の柔らかい肉が邪魔をして、金属の歯がうまく噛み合わない。
息を止め、腹をへこませて強引に引き上げる。
「ギギッ」と嫌な音がして、どうにかフックを留めたが、その瞬間、逃げ場を失った内臓が圧迫され、吐き気がせり上がってきた。
一方で、ウエストの後ろ側は男の骨格に合わせた設計ゆえに不自然に隙間が空き、逆にヒップの頂点だけが生地を限界まで押し広げ、ポケットの口が「ハ」の字に醜く開いてしまっている。
そして、最も残酷な不調和はシャツだった。
袖を通すと、肩幅は悠人のサイズゆえに不自然に余り、袖口が手の甲を覆う。
しかし、前を合わせようとした瞬間、絶望が襲う。
二つの胸の山が、布地を無残に押し広げた。
第一ボタンは留まった。第二もどうにか。
だが、胸の最も高い位置にある第三ボタンに指をかけたとき、布地が左右に限界まで引っ張られた。
「はぁ、はぁ……」 荒い呼吸をするたび、シャツのボタンとボタンの間がひし形に口を開け、そこから生々しい谷間が覗く。
ブラジャーをしていないため、乳首が粗いワイシャツの生地に直接擦れる。
その刺激は快楽などではなく、ただただ不快で、皮膚がヒリヒリと焼けるような痛みを伴った。
悠人は、壁に備え付けられた全身鏡の前に、這うようにして立った。
そこに映っていたのは、滑稽なまでの不調和だった。
肩は落ち、袖はだらしなく余っているのに、胸と腰だけがパンパンに張り詰め、布地を歪めている。
スラックスのベルトラインの上には、締め付けられた脂肪が不恰好にはみ出し、シャツの隙間からは、今にも溢れ出しそうな「肉」の圧力が感じられる。
それは、記号としての「男の服」が、中に詰め込まれた「女の肉体」を拒絶し、悲鳴を上げているような地獄図だった。
「……ひどいな」 鏡の中の女が、悠人の声で、女の絶望を漏らした。
「不恰好ね。でも、それが今のあなたの『真実』よ」
美咲(悠人の身体)が立ち上がり、鏡の中に映る自分――かつての悠人の身体――の肩を抱いた。

バーとか行かないので分かりませんが
こんな格好で呑んでる女性っているんでしょうか?
ちょっとしか見えてませんが、キャバ嬢イメージの服なので
とりあえず普段着る服ではないですね。。。
髪型やポーズで腕は隠しとく。
次回:3/31 21:00更新


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