デスクの端から正確に三センチメートルの位置に、黒の多機能ペンが置かれている。
一ノ瀬美咲(いちのせ みさき)の視界に入る世界は、常にこのように整然としていなければならなかった。
彼女が身に纏うのは、一分の隙もなくプレスされたチャコールグレーのパンツスーツだ。
その直線的なシルエットこそが、彼女がこの混沌とした社会で正気を保つための境界線であり、鎧でもあった。
対照的に、三メートル先に座る上司・佐伯悠人(さえき ゆうと)のネクタイは、今日も右に三ミリほど歪んでいる。
悠人は四十八歳。この組織という緩やかな沈没船の中で、中層階の浸水を食い止める「調整役」という名の重石だった。
彼の仕事は、新しい波を起こすことではない。
波が起きないように、古びたマニュアルの角を丸め、前例という名の重力で全ての熱量を地面に押さえつけることにある。
「……で、このプロジェクトの根拠だがね。一ノ瀬くん。君、前例はあるのかね」
悠人が口を開くたび、美咲は彼の喉仏の震えをカウントする。
一、二、三。
震えに合わせて、微かな加齢臭と、昼食の残り香、そして安物のコーヒーが酸化したような特有の呼気がこちらへ流れてくる。
美咲は表情を変えず、網膜の裏側で論理の構築を続ける。
「前例はありません。だからこそ、市場の空白を突く合理性があります。データは配布資料の四ページ、図表三に集約しています。競合他社が二の足を踏んでいる今こそ、シェアを奪う絶好の機会です」
「理屈はわかるがね。冒険をするには、今の我々のリソースはあまりに……いや、リスクが大きすぎる。万が一の時、誰が責任を取るんだ」
悠人の脳が空転している。
美咲にはその音が、古い換気扇が錆びて軋む音のように聞こえる。
彼は「未知」を「既知」に変える瞬間の高揚を、生理的に拒絶している。
安全な檻の中で、他人のリソースを消費して定年までのカウントダウンを刻む。
彼の細胞が吐き出す二酸化炭素が、会議室の冷たい酸素を汚染していく。
その無能さが、美咲の清潔な白シャツの下に、微かな、そして不快な汗を呼び起こした。
美咲にとって、悠人は「障害物」ですらなかった。
それは単なる「ヒューマンエラーの集積体」だ。
一方、悠人の目から見た美咲は、扱いづらい最新鋭の精密機械のようなものだった。
二十六歳。若手女子社員という属性。
そのラベルは、この組織では透明だ。
彼女がどんなに緻密な論理を積み上げても、悠人や他の幹部たちの網膜には、彼女の「肌の若さ」や「性別」というノイズしか映らない。
彼女の言葉は、彼らの耳を通過する頃には「若さゆえの暴走」や「感情的な飛躍」という都合の良い信号に変換される。
「一ノ瀬くん。君はまだ若いから分からないかもしれないが、組織には……」
悠人の説教が始まる。美咲は意識を遮断した。
彼にとって世界は、古びたマニュアルの厚みで完結している。
そのマニュアルが、彼の家族を養い、住宅ローンを払い、彼という存在の輪郭を維持している。
その時だった。
会議室の白いLED照明が、一瞬だけ強く明滅したように感じた。
美咲の視界が、ぐにゃりと歪む。
カメラのフォーカスが急激に狂うような、強烈な眩暈。
平衡感覚が消失し、上下左右の概念が溶けて混ざり合う。
(……何?)
色彩が抜け落ち、世界が泥のようなセピア色に反転する。
美咲の意識は、自分の肉体から引き剥がされ、目の前に座る「歪んだネクタイの男」の瞳の中へと吸い込まれていく感覚に襲われた。
自分の皮膚の境界線が曖昧になり、他者の輪郭と混濁する。
論理が、崩壊する。
世界を繋ぎ止めていた三センチメートルの規律も、プレスのきいたスーツの直線性も、すべてが融解して泥に沈む。
次に「意識」が浮上したとき、最初に突きつけられたのは圧倒的な「質量の暴力」だった。
(……重い)
肺に空気を送り込むだけで、肋骨の周りの分厚い脂肪と筋肉が、物理的な抵抗として立ちはだかる。
呼吸が浅い。
喉の奥にこびりついた脂の粘り気が、不快な喘鳴を鳴らす。
視界の高さが変わっている。
少しだけ高くなったはずなのに、世界は以前よりも狭く、そして「濁って」見えた。
眼球そのものの透過率が下がったかのように、色彩は沈殿し、輪郭はぼやけている。
鼻腔を突くのは、逃げ場のない異臭。
古い枕に染み付いた脂、蓄積された疲労の腐敗臭、そして湿ったタバコの残り香。
それが「外側」からではなく、自分の「内側」から、あるいは自分の「皮膚」そのものから立ち上っていることに気づいた瞬間、内臓の奥で酸っぱいものが逆流した。
「…佐伯さん? 顔色が悪いですよ」
横から声が聞こえた。
目の前には、椅子から崩れ落ちそうになっている「一ノ瀬美咲」がいる。
彼女の、いや、かつての「私」の身体は、小刻みに震え、虚空を掴もうとしている。
美咲(中身)は、反射的に手元の資料を掴もうとした。
だが、視界に入る自分の手は、美しく整えられた指先ではなかった。
節くれ立ち、毛穴が開き、爪の間に薄汚れた不潔さが染み付いた、醜悪な中年の男の手。
かつて軽蔑の対象でしかなかった「ヒューマンエラーの集積体」そのものに、自分の意識が、神経が、存在が、強引に流し込まれている。
その脳細胞は驚くほど鈍く、重い。かつて数秒で導き出せた計算も、鮮やかな論理の飛躍も、この泥のように重い脳の中では霧散してしまう。
「ねぇ、大丈夫ですか?」
震える声で囁かれる。
その瞳の中に、美咲は自分の「正気」の残骸を探そうとした。
しかし、そこにあるのは、ただの「肉体の誤配」という、あまりにも無機質で残酷なエラーの記録だけだった。
窓の外では、何も知らない都会の喧騒が続いている。
完璧にプレスされたはずのスーツは、今や他人の汗と脂を吸った、重く湿った拘束衣へと変貌していた。

上司って、責任取る立場なので無理はしつつ無茶は出来ない人多いですね。
逆に私の頃の下っ端って、空回りばっかりで無理ばかりしてた気がする。
私自身は結構サボってましたが。
今は、最低限やって帰る人の方が多いのかな?
洗脳されて暴走してる人も多いけど。
まあ、段々と慣れてくると、いい感じのラインが見えてくるさ。
やったことなくても前例がありそうに見せる話し方とか。
責任を有耶無耶にする進め方とか。
まあ、私は嫌いですが。。。
なので上に立てず、下っ端としても使いづらいのでしょうねw
次回:3/3 21:00更新します!


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