鏡という道具は、本来、光の反射を利用して物体の形を確かめるための板に過ぎない。
佐々木悠人は、自室のデスクで使い古されたノートPCのキーボードを叩きながら、文字と数字だけの世界に浸っていた。
高校1年生になったばかりの彼にとって、世界は整理されたデータのように予測可能であるべきだった。
趣味の自作PCや、自分で組んだスケジュール管理。
それこそが彼の安心できる場所であり、逆に言えば、予測不能な「人間関係」や「女子の気持ち」なんてものは、画面が突然固まってしまうような、不愉快なエラーでしかなかった。
「悠人、ちょっといい?」
背後でドアがノックもなしに開く。
姉の里奈だ。
彼女は大学でデザインを学んでいるが、悠人からすれば、彼女の行動原理こそが最も理解不能な、理屈の通じない存在だった。
里奈の手に握られているのは、数枚の紙と、見慣れない派手な紙袋。
「何。今、作業中なんだけど」
「いいから。あんた、春休みからずっとその椅子に根が生えてるじゃない。たまには私の課題に協力しなさいよ」
「課題?」
「『見た目を変えることで、人の心はどう変わるか』っていう実験。……なんてね。正直に言うと、あんたの顔が素材として良すぎるから、ちょっと試してみたいだけ」
里奈の瞳に、獲物を見つけたような怪しい光が宿る。
悠人は嫌な予感がして席を立とうとしたが、里奈の動きの方が速かった。
「嫌だ。断る。だいたい、僕は男だぞ」
「わかってるわよ。でもね、悠人。あんたの顔立ち、肌の白さ、そしてその少し自信なさげな目……。これに『女子高生』の格好を被せたらどうなるか。興味ない?」
抵抗は虚しく、悠人は姉の「作業部屋」へと引きずり込まれた。
そこは香水と化粧品の香りが混ざり合った、彼にとっては異世界のような場所だった。
椅子に座らされた悠人の視界から、眼鏡が取り上げられた。
「視界がぼやける……」
「その方が都合がいいわ。完成するまで、自分の姿を決めつけないためよ」
そこからは、自分という存在が塗り替えられていくような時間だった。
冷たい液体で顔を拭かれ、何層ものクリームが塗り込まれる。
パタパタと小刻みに叩かれるパフの音。
筆が瞼をなぞる、くすぐったい感覚。
里奈の手つきは、熟練の職人のように精密で、迷いがなかった。
「悠人、動かないで。アイラインがずれると、全部台無しになるから」
「……里奈、これに何の意味があるんだ。僕が僕でなくなっていく気がする」
「黙って。今はあんたの理屈なんていらない。私が作るのは、『最高に可愛い女の子』っていう器なんだから」
里奈の言葉に、悠人は奇妙な感覚を覚えた。
自分の身体が、まるで他人の手に委ねられた機械のパーツのように作り変えられていく。
仕上げに、重みのあるウィッグが頭を覆った。
サラサラとした茶色の長い髪が肩に触れる。
それは悠人がこれまで経験したことのない、異質な感触だった。
「さあ、着替えて。これ、私が高校の時に着てた制服。あんたならサイズもぴったりなはずよ」
手渡されたのは、紺色のブレザーとチェックスカート。
そして、黒のタイツ。
更衣室代わりのカーテンの影で、悠人は震える手で服を脱ぎ捨てた。
肌を刺す冷気。代わりに乗せられる、プリーツスカートの重み。
ブラウスの襟元に結ばれたリボン。
最後に、ローファーに足を通した時、悠人の中で何かが決定的に「切り替わった」音がした。
「……できた。完璧。期待以上だわ」
里奈の低い、感嘆の声。
悠人はゆっくりと、促されるままに鏡の前に立った。
里奈がコンタクトレンズを彼の瞳に滑り込ませる。
世界が、突然、鮮明にピントを結んだ。
鏡の中にいたのは、佐々木悠人ではなかった。
そこにいたのは、潤んだ瞳に赤らんだ頬、艶やかなロングヘアをなびかせた、紛れもない「美少女」だった。
ブレザーに包まれた肩のラインは華奢で、タイツに包まれた足の曲線は、男子のそれとは信じがたいほどにしなやかだった。
悠人は息を呑んだ。心臓の鼓動が早くなる。
それは恐怖に似ていた。
自分が信じてきた「自分」という存在が、わずか数時間の外見の変化によって、ここまで簡単に否定されてしまったことへの恐怖。
「……これ、僕なの?」
「いいえ。今は『結衣(ゆい)』ちゃん。私の可愛い妹よ」
鏡の中の少女が、悠人の言葉に合わせて唇を動かす。
その動きさえも、計算されたかのように愛くるしい。
悠人は、鏡の中の自分に手を伸ばした。冷たいガラスの感触。指先が触れ合う。
その時、彼の脳裏に一人の人物が浮かんだ。
幼馴染の、美咲。
バレー部のエースで、いつも太陽のように眩しい彼女。
自分とは正反対の世界に住む彼女にとって、自分はいつまで経っても「守ってやるべき、弱々しい幼馴染」でしかない。
彼女の視線の中に、「男」としての自分は存在しない。
だが、もし。
もし、この鏡の中の少女として彼女の前に現れたら?
「……美咲ちゃん、どう思うかな」
無意識に零れた呟き。
里奈がそれを見逃すはずはなかった。
「美咲ちゃん? そうね、彼女ならきっと、この『結衣ちゃん』を放っておかないはずよ。女の子同士として、今まで知らなかった彼女の顔が見られるかもしれないわね」
里奈の言葉は、毒のように悠人の頭に侵入した。
それは、抗いがたい誘惑だった。
この「偽りの姿」であれば、自分は美咲の隣に立つことができる。
彼女の懐に入り、彼女の本当の声を聞くことができる。
「どうする? 悠人。このまま脱ぎ捨てるのも自由。でも、この『魔法』を少しだけ試してみたいと思わない?」
悠人は、もう一度鏡を見つめた。
鏡の中の「結衣」は、不安げな表情を浮かべながらも、どこか期待に満ちた強い眼差しで自分を見つめ返していた。
それは、元には戻れない変化の始まりだった。
一度書き換えられた自分への認識は、二度と以前のようには戻らない。
悠人は、拳をぎゅっと握りしめた。
スカートの生地が、掌の中でくしゃりと音を立てた。
「……一回だけ。試してみるだけだ」
その声は、自分でも驚くほど高めに、そして震えていた。
佐々木悠人という日常が壊れ、新しい「僕」が生まれる瞬間の、最初のアラートだった。

女装した状態で知り合いに会うのはかなり不安です。
あくまで知ってる人限定でならいいんだけど。
だからみんなSNSとかで発散してるわけだし。
私もほとんどの友人には未だに打ち明けてないし。
これも結構多くの人が共感してくれるのでは?
まあ、秘密は言いふらすものではないね。
次回:4/7 21:00更新


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