午前四時。
アラームが鳴る数分前、美咲の右膝が鋭い疼きを放ち、意識を泥のような眠りから強制的に引きずり出した。
カーテンの隙間から差し込む街灯の冷たい光が、ワンルームマンションの殺風景な床を照らしている。
昨夜、仕事のストレスを叩きつけるようにしてねじ消した最後の一本の吸い殻が、灰皿の中で歪な死骸のように横たわっていた。
部屋全体に淀んでいるのは、安価なタバコのヤニ臭さと、湿った洗濯物の生乾きの臭いだ。
「……っ、痛っ……」
美咲は重い身体をシーツから剥がした。
四十二歳の肉体は、もはや彼女の意志に従う精密な機械ではない。
重力に負けて垂れ下がった乳房の重みが、寝返りを打つたびに肋骨を圧迫する。
鏡の前に立てば、そこには「二十年間の損耗」を絵に描いたような女がいた。
制服のウエストに乗った贅肉。
不規則な夜勤とコンビニ飯の代償である、くすんだ肌。
白衣を着ればそれなりに「ベテラン看護師」の体裁は整うが、脱げばそこにあるのは、ただの疲れ果てた肉の塊だ。
かつては、この職場で有能な外科医を捕まえ、寿退社する未来を疑わなかった。
だが、実際に目の当たりにしたのは、看護師を名前で呼ばず「おい」と呼ぶ医師たちの傲慢さと、若くて従順な新人ばかりを愛でる男たちの本能だった。
洗面台の蛇口をひねり、冷水で顔を洗う。
指先が、自身の頬の硬さに失望する。
かつての弾力はどこへ行ったのか。
ファンデーションを厚く塗り、法令線の溝を埋める作業は、まるで崩れかけた外壁をセメントで補修する土木工事のようだった。
美咲は、洗面台の鏡に向かって、小さく、しかし深く吐き捨てた。
「……死にたいわけじゃないけど、生きてる感じもしないわね」
その数時間後、市立病院の正面玄関。
高校三年生の里奈は、期待と緊張で、制服のスカートの裾を何度も握りしめていた。
「職業体験プログラム」
その名目は、彼女にとって絶望的な現実から逃れるための、唯一の聖域だった。
里奈の成績は、底辺と言って差し支えなかった。
昨日、進路指導室で担任の教師に叩きつけられた模試の結果は、全国偏差値38。
志望校の欄に書いた「看護学部」の横には、冷酷な「E」の文字が刻まれていた。
「里奈ちゃん、看護師になりたい情熱は認めるけどさ。せめて分数計算くらいは完璧にしようよ。薬剤の計算、間違えたら患者さん死んじゃうんだよ?」
担任のその言葉は正論だった。正論だからこそ、里奈の胸を深く抉った。
彼女には、幼い頃に自分を救ってくれた「白衣の天使」への純粋な憧れがあった。
高熱でうなされる夜、優しく手を握ってくれた看護師の温度を今でも覚えている。
自分もそんな存在になりたい。
だが、教科書を開けば、文字は躍り、数式は拒絶反応を呼び起こす。
「おはようございます! 今日からお世話になります、安達里奈です!」
ナースステーションで、里奈は精一杯の笑顔を作った。
その声の明るさが、夜勤明けで神経を尖らせていた美咲には、何よりも耳障りな不協和音として響いた。
美咲は無造作に結んだ髪を指で掻き、冷めた視線を里奈に送った。
「……声が大きいわよ、ここは静養の場なんだから。あんたが担当? 迷惑かけないでね。とりあえず、これ持ってついてきて」
美咲が里奈に押し付けたのは、山積みの使用済みシーツと、消毒液の染み付いた清掃用具だった。
里奈は必死についていった。
美咲の背中は大きく、頼もしく見えた。
だが、近くに寄ると、柔軟剤の香りの奥から隠しきれないタバコの臭いがした。
そして、美咲が階段を上るたびに、膝のあたりで「パキッ」と不吉な音が鳴るのを、里奈は聞き逃さなかった。
午後。病棟の片隅で、里奈は点滴の準備を補助しようとして、バイアルの蓋を床に落とした。
「あっ……」
「いいわ、触らないで」
美咲の冷徹な声が飛ぶ。
「あんた、看護師になりたいって言ってたけどさ。その程度の不器用さで、人の命預かるつもり? 若いからって、何でも許されると思ったら大間違いよ」
里奈の瞳に、みるみるうちに涙が溜まる。
「すみません……。でも、私、どうしてもなりたくて。勉強はできないけど、一生懸命やればいつかは……」
「一生懸命? 笑わせないで。その『いつか』が来る頃には、あんたの腰も膝もボロボロよ。肌は荒れて、男には愛想を尽かされて、残るのは孤独と加齢だけ。……あんたのその空っぽな若さ、私にくれればいいのにね。私のこの経験と、あんたのガワがあれば、人生なんて余裕でやり直せるわ」
美咲の言葉は、単なる八つ当たりだった。
だが、その言葉に、里奈は縋るような目を向けた。
「……私の若さでよければ、あげたいです。もしそれで、私が美咲さんみたいに、ちゃんと仕事ができるようになれるなら」
美咲は鼻で笑ったが、ふと、一昨日の当直中に患者から聞いた話を思い出した。
この病院の裏手、今は使われていない旧病棟の庭にある、朽ち果てた小さな祠の噂。
『心から望むものを、最も憎むものと引き換えることができる』
そんな、看護師の間で語り継がれる質の悪い怪談。
「……いいわよ。じゃあ、試してみる? 私たちの『交換』を」
雨が降り始めていた。
美咲は半ば冗談のつもりで、里奈を旧病棟の裏へと連れ出した。
湿った土の臭いと、カビの臭い。
放置された医療機器の残骸が転がる中、二人はその小さな祠の前に立った。
里奈は震えていた。
美咲は、自身の中に芽生えた昏い高揚感に戸惑いながらも、里奈の細い手首を掴んだ。
「条件は一つ。絶対に後悔しないこと」
美咲の手のひらは、長年の労働で硬く、ガサついていた。
里奈の手のひらは、柔らかく、湿っていた。
「……はい」
二人の指が絡まった瞬間、空気が凍りついた。
祠の奥から、低く、重い、振動のような音が響く。
美咲は、自分の身体から何かが「剥がれ落ちる」感覚を覚えた。
それは皮膚を剥がされるような痛みではなく、重いコートを無理やり脱がされるような、暴力的な解放感だった。
対して里奈は、自分の身体に「何かが流し込まれる」感覚に、絶叫しそうになった。
それは、熱した鉛を血管に流し込まれるような、圧倒的な質量の侵入だった。
視界が白濁し、平衡感覚が消失する。
美咲の意識は、真っ逆さまに、しかし恐ろしく軽やかに墜落していった。
数分後。
雨音が、先ほどよりも遠くで聞こえる。
祠の前にへたり込んだ、二つの影。
「……ぁ」
最初に声を上げたのは、セーラー服を着た少女の姿をした「何か」だった。
美咲は、自分の手を見た。
指先が、細い。
関節に節がなく、爪の形が完璧だ。
そして、何より驚いたのは、呼吸だった。
肺の奥まで、空気が抵抗なく流れ込んでくる。
あの、粘つくような肺の重苦しさが消えている。
「……うわっ」
立ち上がろうとした瞬間、身体の軽さにたじろぎ、足がもつれた。
膝に痛みがない。腰に違和感がない。
ただ、そこに存在するだけで、世界が明るく、鮮明に見える。
「成功、したの……?」
自分の声。それは、聞き覚えのある里奈の、高くて甘い声だった。
一方で、足元で呻いている「美咲の肉体」は、悲惨だった。
里奈(中身)は、あまりの苦しさに、地面の泥を掻いた。
「……げほっ、……う、ぁ、……っ!!」
肺が焼けるように熱い。喉の奥にこびりついたヤニの味が、激しい吐き気を催させる。
そして何より、重い。
起き上がろうとするだけで、重力が数倍になったかのような負荷が全身にかかる。
腰の奥で、鈍い痛みが「居場所」を主張している。
「……何、これ……苦しい、動けない……」
美咲の、低く、枯れた声。
里奈は、自分が手に入れた「憧れの身体」が、これほどまでに壊れかけ、疲弊しきった檻であることを、その瞬間初めて理解した。
美咲(中身)は、里奈の姿で、自分だったはずの肉体を見下ろした。
「……あんた、それ、ちゃんと使いこなしなさいよ。私が二十年かけて築いた『キャリア』なんだから」
美咲は、里奈の唇で、残酷な笑みを浮かべた。
今の彼女には見える。
この若い身体なら、何だってできる。
かつての挫折も、間違えた選択も、すべて塗り替えられる。
この軽やかな肉体という資本さえあれば。
里奈(中身)は、泥の中に指を食い込ませ、自分のものとなった「太く、節くれだった腕」を絶望的に見つめた。
「……美咲、さん……?」
「あら、もう私は『里奈』よ。あんたが『美咲』。……忘れないでね」
美咲は、一度も振り返ることなく、軽快な足取りで雨の中を駆け抜けていった。
残された里奈は、老婆のようにゆっくりと、痛む腰を庇いながら立ち上がった。
ブラジャーのワイヤーが肉に食い込み、呼吸を妨げる。
これが、大人の女性になるということなのか。
これが、憧れの白衣を纏うための「対価」なのか。
里奈は、重い足取りで病院へと戻る。
一歩踏み出すごとに、膝が軋む。
彼女はまだ知らなかった。
身体を入れ替えても、失われた「時間」だけは、決して埋めることができないという残酷な事実を。
そして、手に入れたはずの「若さ」という名の可能性が、ただの「無知」という名の牢獄に過ぎないことを。

子供の頃は自由が欲しくて早く大人になりたかった。
受験のときは、早く解放されたかった。
そして大人になった今は、自由と若さが欲しい。
まあ、いつまでもないものねだりしてるわけですねw
あと、若さに興味がないわけではないですが
若返る必要性は特に感じてないです。
今の若い子たちの生活に合わせるとか、多分無理。
次回:3/10 21:00更新予定 またリメイクですが、きっと楽しめると信じてる。


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